【京都市】上京区 応仁の乱の戦場あとにある「百々橋」の疎石
京都人が「先の戦」と言えば、太平洋戦争ではなく「応仁の乱」をさす、というのはよく聞く笑い話ですね。
「応仁の乱」の際、細川勝元(東軍)が山名宗全(西軍)の両軍が、橋を隔てて数度にわたり合戦を行い、この小さな『百々橋』に戦国乱世の歴史のひとこまが刻まれることとなったと言われています。
この石は、応仁の乱(一四六七~一四七七)の戦場として歴史に名をとどめる「百々橋」の疎石の一つだそうです。
百々橋は当時を南北に流れていた小川に架かっていた橋(長さ約七・四メートル、幅約四メートル)。
「百々橋」名は、応仁の乱以前の風景を描いたといえあれる「中昔京師地図」に当地が「百々ノ辻」と記載されていることに由来すると伝えられています。
「応仁の乱」は、室町時代中期の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱をいいます。
「高津商会」の刀剣や甲冑などが活躍している『戦国時代』の映画やドラマたち。その『戦国時代』の誕生のきっかけとなったとも言われます。この内乱の発生要因には、足利将軍家の後継者問題、幕府の主導権をめぐって争ったなど言われています。
隣の人形寺としても知られる『宝鏡寺』さんには日野富子の像があります。八代将軍の足利義政の正妻であり、 我が子義尚(よしひさ)を世継ぎにしようとしたことが、“応仁の乱”を引き起こした原因のひとつといわれています。「宝鏡寺」第十五世渓山(けいざん)禅尼は、義政と富子の息女でもあります。
南北の小川通周辺には、本法寺などの寺院、表千家会館、裏千家家元の屋敷、茶道具店などが数多く建ち並ぶ雅なエリアになってますよ♪
茶道着資料館などもあり、やきものや茶道に興味のあるかたはぜひ♪
小川と百々橋礎石
住所:京都市上京区寺之内通堀川東入ル百々町