ポール・ブレイ『言い訳しないで(If We May)』ライナーノーツ
◆ポール・ブレイはコハダである
コハダというのは、ニシンの仲間の魚コノシロの15cmぐらいの大きさのものを指す。寿司ネタとしては有名だが、そのほかの料理の素材としてはほとんど用いられない。その理由は、“煮ても焼いても食えない”からだ。
さらに、この小魚は、小骨を取って一塩し、酢で洗う(締める)など手間がかかるため、口にするまでには“職人の技”なるものが必要とされる。それだけに、繊細な“仕事”がなされたコハダは、江戸前にぎりのなかでも別格扱いをされるほどのネタとなる。
ところが、元来が“ひかりもの”の類いであることから、偏見をもって嫌われることがままある。
さて、なんの話をしているのかなどと、いまさら言わなくとも、曲折した情感の襞を読むことに喜びを感じるタイプであるはずのポール・ブレイ・フリークであれば、説明は必要あるまい。
ポール・ブレイこそ、あの始末におえないコハダなのである。それも、極上の……。
別に、彼の特異性や、その持ち味を好む“オタク的な”周辺状況を比喩するのに、なにを持ってきてもかまわないのだろうが、“くさや”や“鮒鮨”のような“熾烈さ”は似合わないし、ゲテモノ的な粗暴さとも趣を異にする。
手際よく下ろされ、脂具合を見極めた塩、そして酢。そこまで神経が行き渡り仕上げられた、一握りのシャリのうえの芸術品こそ、彼のピアノにふさわしい。
ポール・ブレイは1932年、カナダのモントリオールに生まれた。「カナダ生まれ……」というのがまた、フリークを幻惑させる甘い響きをもっている。神童学生と呼ぶにふさわしく、幼少からその際を発揮する。
彼がニューヨークで作曲や指揮を学んでいた50年代は、ジャズにも変革が訪れていたころだった。
理論と才能を兼ね備えたポール・ブレイは、当然のように、わき起こるフリー・ジャズ・ムーヴメントの先陣に立つ人材となった。1970年代に入っても、エレクトリック・サウンドの先駆を切り、前衛的な分野において揺るぎない地位を保ち続ける。80年代では、前衛的なアプローチのプロジェクトでさらに現代音楽的なセンスを磨きながら、一方でこのスティープルチェイスにおける活動のような、ジャズ・トラディショナルを意識したプレイを披露してきた。
◆ポール・ブレイはリミテッド・モデルである
このような経歴が禍してか、いまだにポール・ブレイに対する“食わす嫌い”の反応を示すジャズ・ファンも少なくない。コハダを見ただけで「ワタシって、ヒカリモノがダメなヒトだからぁ〜」などと手をつけようとしないのと同じだ。ポール・ブレイをほかの青魚と同列に評し、彼のなかの“ヒカるモノ”を感じ取ることができないのは悲しい。
さて、最近のポール・ブレイは、なにが光っているのか……。それにはまず、彼の二面性を理解しなければならないだろう。
ポスト・フリー・ジャズが模索されていた70年代に、ポール・ブレイはピアノという楽器をジャズの基本に戻って考え直してみた。そして、リズムセクションや和声という役割を問い直すため、それらを意識させずにピアノに向かう方法論を打ち出した。ピアノ・ソロ・インプロヴィゼーションは、ニュー・ジャズを越えた、ニュー・エイジ的なアプローチの根幹を作り、現代音楽の要素を濃くしながら発展していった。
ところが、彼はこれとほぼ並行するように、彼が憧れ続け求め続けてきた、彼にとってのジャス・エッセンスとも言うべき原点への回帰を始めていたのだ。ニールス・ペデルセン(ベース)とともに録音した『デュオ』は73年の作品だが、スティープルチェイスというレーベルへの参加は、彼が前衛的アプローチでは満たされない“なにか”を訴えるのに、とても心地よいスペースになっていたのではないでろうか。
その“なにか”とはなにかーー。彼の旨の奥底にしまわれた、バップ・ピアニストとしての“ジャズへの想い”だ。
ニューヨークに出てきたばかりのころの演奏をデビュー盤『イントロデューシング・ポール・ブレイ』(1953年)で聴くことができるが、アート・ブレイキーのドラムに支えられて弾くブレイは、バド・パウエル派ピアニスト以外のなにものでもない。フリー期に突入した62〜63年のサボイ盤『フット・ルース』での演奏も、ピート・ラロッカのドラムにマッチするドライヴ感が印象的だ。
このように、ポール・ブレイは、異端児視されるようなニュー・タイプ、ニュー・モデルではないのだ。骨組みは、連綿と続くジャズの本流を継承している。彼は、ジャズ・ピアノの限定ヴァージョン(リミテッド・モデル)として先鋭的な試みを行なうが、その土台は決して崩れていない。たからこそ、スタンダードなナンバーをプレイできる場、スティープルチェイスでの活動が、二面的とも言える比重で行なわれているのである。
◆ポール・ブレイは言い訳している
それにしても、ここ数年のポール・ブレイの活動は旺盛だ。特にスティープルチェイス・サイドへの彼の意識が高まっているように感じる。
新人ギタリストのデイヴ・ストライカーの『パッセージ』でバックを務めたコンビ、ジェイ・アンダーソンとアダム・ナスバウムを従えたピアノ・トリオの最新作である本作も、「ポール・ブレイがピアノ・トリオでスタンダード・ナンバーを取り上げたアルバム」と感嘆に言ってのけてしまえそうな外観だが、その内容はやはりポール・ブレイらしくセンシティヴで味わい深い仕上がりになっている。
興味深いのは、その選ばれたナンバーのほとんどが、彼の幼少期からティーンエイジあたりという、多感な時代に作曲されたものであるということだ。ポピュラー・ソングとして親しまれたこれらの曲は、ビッグ・バンド・ジャズの流行などともあいまって、音楽に特別敏感だったポール少年の心に刻まれていったのだろう。半世紀を過ぎ、それらを心の片隅から取り出して、熟成の度合いを確かめながら、音のひとつひとつに磨きをかけ直して紡いでいくようすが、彼のピアノからジンワリと伝わってくる。
2曲(「ロング・アゴー・アンド・ファー・アウェイ」「オール・ザ・シングス・ユー・アー」)取り上げているジェローム・カーンはニューヨーク生まれで、ティン・パン・アレイ(1890年代から20世紀初頭にかけて隆盛を誇ったニューヨーク・ブロードウェイ近辺の音楽業界関係者のたまり場の愛称)の作曲家を代表するひとり。その後もミュージカルの作曲等で人気を集めた。この2曲は彼の代表作だ。
「言い訳しないで」は、アーサー・ハーツォグ・ジュニアの詞に、不世出の偉大なるシンガー、ビリー・ホリディがメロディをつけたもの。彼女がこの歌を口ずさんだ1946年は、母親の死や結婚の破綻などで精神的に弱っている状態にあり、麻薬漬けの日々を送っていた。
「インディアン・サマー」は、ポール・ブレイとロン・マクルーア、バリー・アルトシュルのトリオでスティープルチェイスに録音し(1987年)、そのアルバム・タイトル曲でもある。
「グッドバイ」は、ゴードン・ジェンキンスが作曲し、ベニー・グッドマンの手に渡って彼の楽団のクロージング・テーマ曲として用いられていた。
チャーリー・パーカーの曲が若干異色ではあるが、これはもう、彼のフェイヴァリット・ミュージシャンへの敬意と見るしかない。21歳のポール少年は、わざわざパーカーをカナダへ招待し、同じステージを踏んだ。こんなエピソードも、バップへの想い果てることのないポール・ブレイの“真の姿”を垣間見せてくれるような気がする。
とはいえ、彼自身に二面性の意味や理由を聞こうとしても、「僕は僕の心に浮んだサウンドをプレイしていきたいだけなんだよ」と、静かに笑いながら諭されてしまうに違いない。彼の“言い訳”は唯一、ピアノの音だけなのかもしれないのだからーー。
JUN.1994/富澤えいち