豊臣秀吉は浅井氏を滅ぼし、長浜城主となり大出世したが、なぜ今浜を長浜に改称したのか
現在、長浜城歴史博物館では、「秀吉と長浜」をテーマにして、「秀吉を支えた武将たち~三成とその家族~」のコーナー展示が行われている。こちら。豊臣秀吉が長浜城主となり大出世したのは、近江浅井氏を滅亡に追い込んだからだが、なぜ今浜を長浜に改称したのだろうか。
元亀元年(1570)、織田信長は姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍に勝利したが、滅亡に追い込むことができなかった。元亀4年(1573)8月、浅井家の重臣の阿閉貞征が織田方に寝返ると、信長は約3万の軍勢を率いて北近江へ進軍した。
信長は虎御前山の砦に本陣を置いたが、背後の朝倉氏を警戒して無理に攻撃しなかった。一方の浅井長政は小谷城(滋賀県長浜市)で籠城したが、離反者が続出し孤立したのである。
浅井氏は朝倉氏へ援軍を要請すると、朝倉氏は約2万の軍勢を率いて、小谷城の北方まで駆け付けた。しかし、織田軍に敗北した朝倉軍は、撤退の途中で追撃され、壊滅的な打撃を受けた。
朝倉義景は一乗谷城(福井市)にたどり着いたが、8月20日に自害したので朝倉氏は滅亡した。朝倉氏を滅ぼした信長は、すぐに小谷城へと引き返し、同月26日に虎御前山の本陣へ帰還すると、小谷城への総攻撃を決意した。
翌27日の夜半、秀吉は小谷城を攻撃した。秀吉が標的としたのは、長政の籠る本丸と久政(長政の父)が籠る小丸との間にあった京極丸である。
秀吉は京極丸を落とすことにより、父子を繋ぐ曲輪を分断しようとしたのである。その後、小丸への攻撃が集中すると、久政は抵抗を諦め自害して果て、長政も自害したので、浅井氏は滅亡したのである。
こうして秀吉の大活躍により、近江浅井氏は滅亡に追い込まれた。信長は秀吉の軍功を賞して、当時、今浜と呼ばれた地を与えたのである。
今浜を与えられた秀吉は、早速、信長の「長」の字を拝領し、「今浜」から「長浜」へ改称したという。信長を敬ってのことだろうが、これは単なる俗説にすぎず、史実ではないとも指摘されている。
秀吉が今浜の地に城を築いたのは、信長の居城の安土城(滋賀県近江八幡市)に近く、仕官に支障がなかったからだったという。『豊鑑』には、「今濱の名をかえて、長濱となむ」と記されているが、改称の理由は記されていない。
天正2年(1574)6月6日、秀吉は平方の名主らに対して、「今はま」の普請を申し付けた(「川井善七氏所蔵文書」)。その2日後、秀吉は下八木の地下人に対して、「今濱」の普請を命じた(「大阪城天守閣所蔵文書」)。
つまり、天正2年(1574)の時点では、今浜の名称が用いられていたことがわかる。その後、何らかの理由で長浜に改称したのだろうが、今のところ明確な回答はない。
長浜城の築城時は、落城した小谷城の資材を用いたといわれている。また、密かに竹生島に隠されていた材木などを見つけ、それらも活用したという。
築城には数年を要し、秀吉が入城したのは、天正3・4年(1575・1576)頃になったという。長浜城の石垣は湖水に浸かっており、直接、城内の水門から船が出入りできるように工夫され、城下町は小谷城下から移転された。
長浜は秀吉が初めて作った城下町であり、その後のモデルになったのである。