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上杉景勝は激しい権力闘争の末、上杉家の家督を継いだ。その真相とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
春日山城跡。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」の新キャストが発表され、津田寛治さんが上杉景勝を演じることになった。景勝は養父の謙信の死後、すんなりと家督を継承したのではなく、御館の乱で同じ養子の景虎を討ち果たすことで実現した。以下、その経緯をたどることとしよう。

 周知のとおり謙信には子がいなかったので、養子として景勝と景虎を迎えた。景虎は北条氏康の子であり、景勝は長尾政景の子である。ちなみに、謙信は妻を迎えることなく、生涯を独身で通した。

 当時としては珍しいことであるが、その理由は不明である。とはいえ、謙信は後継者問題を解消する気持ちがあったので、養子を迎えていたのは事実と考えてよいだろう。

 天正6年(1578)に謙信が亡くなると、後継者の問題が浮上した。驚くべきことだが、謙信は2人も養子を迎えていたのに、景勝と景虎のいずれを後継者にするのか遺言していなかった。

 そのような事情から、景勝と景虎が上杉家の家督をめぐって争った。御館とは春日山城下にある関東管領館のことで、謙信が政務を行っていた場所でもあった。

 謙信の没後、景勝は春日山城(新潟県上越市)に入り、景虎は御館(同)に拠って戦った。この戦いは、景虎が籠った御館にちなんで、御館の乱と称されている。

 当初、景虎は北条氏政に援軍を要請し、春日山城下に放火するなど戦いを有利に進めていた。そのまま戦いが続けば、景虎が勝利したのである。

 ところが、甲斐の武田勝頼が景勝に与すると形勢は逆転し、景虎は景勝といったんは和睦することになった。しかし、この和睦は長く続かなかった。

 翌天正7年(1579)2月、景勝は御館に総攻撃を開始した。景勝の猛攻により、御館はついに落城したのである。結局、景虎の正室は自害し、景虎の嫡男は上杉憲政とともに御館を脱出したが、逃亡する途中で殺害された。

 一方、御館を脱出した景虎は、北条氏を頼りにして小田原城(神奈川県小田原市)に逃亡したが、かつて配下にあった堀江宗親の裏切りにより殺された。こうして景虎とその一族は、すべて殺害されたのである。

 通常、家督を継ぐ実子がいない場合は、養子を迎えるのは当然なのだが、謙信は2人も養子を迎えたうえに、誰を家督に据えるか決めていなかった。それゆえ、御館の乱という未曽有の事態を引き起こしたのである。

 補足しておくと、「謙信は女性だった」という説があるが、これは事実無根の妄説に過ぎない。

 謙信は細川政元と同じく、宗教に傾倒し、自己の信条から妻を娶らなかったのではないだろうか。政元もまた複数の養子を迎え、謙信と同じく後継者を指名していなかったので、家督をめぐる争いが勃発している。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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