セナ没後20年。伝説のレーサーは今も愛され続ける
1994年5月1日にイタリア・イモラサーキットのタンブレロコーナーでブラジル人F1ドライバー、アイルトン・セナが天に召されてから20年が経った。もう20年。月日が流れるのは早いものだ。没後20年を機に雑誌やテレビなどで様々な特集が組まれ、彼の魅力が改めて伝えられている。
ただ、セナの魅力を語られてもピンと来ない人は年々増えている。ましてや、セナがF1で戦った時代をリアルタイムで経験していない世代なら、セナがレーサーであることすら認識できない人が居ても当然だ。それだけ時間が経過してしまったということだろう。
走りで表現した最後のレーサー
アイルトン・セナは没後20年経った今も愛され続けている。愛されている、というよりは、神格化されている。その理由は、彼がF1サンマリノGP(イタリア)でトップ走行中に亡くなった悲劇のレーサーだからではない。1990年代当時のF1グランプリを楽しんでいた人なら共感してもらえると思うが、彼はサーキットで「現人神(あらひとがみ)」のような存在だった。
当時のF1には個性的なレーシングドライバーが何人も居た。「プロフェッサー(教授)」と呼ばれた頭脳派ドライバーのアラン・プロスト。「ライオンハート」と形容された野性的な走りが魅力のナイジェル・マンセル。恵まれたルックスから世界中の女性と浮き名を流しつつも、ベテランらしい粘り強い走りでキャリア後半も勝利を重ねたネルソン・ピケ、などなど。テレビの影響も大いにあるだろうが、F1ファン達はそれぞれのドライバーに付けられたニックネームやキャッチフレーズでドライバーの個性を認識し、レースを楽しんでいた。そんな中で、レーサーらしからぬ爽やかなルックスでひときわ異彩を放ち、日本のファンの心を掴んでいたのがアイルトン・セナだった。
気品のあるイメージに対する嫌悪感と、スタートに成功すれば圧倒的な速さで逃げるセナの強さに「アンチ・セナ」のファンも多かったと思う。僕自身がまさにそうで、強すぎるセナではなく、ベテランのピケが好きだった。しかし、鈴鹿サーキットで1991年のF1日本グランプリを見てからは、明らかにセナに対する印象が変わった。レースを観る事に関して「ド素人」だった中学3年生の少年にも、セナの存在感は衝撃的だった。セナが走ると「ワワワッン、ワワワッン」と「セナ足」と呼ばれた小刻みに刻まれるアクセルコントロールの音が聞こえてくる。そして、セナはみるみるうちに後続を引き離して行った。誰が見ても、他とは違うものだった。耳をつんざくようなホンダV12のサウンドと共に鈴鹿サーキットを駆け抜けたセナの走りは「これぞ王者の姿」と感激したことを今も覚えている。
「セナ足」やセナのドライビングの魅力は、昨年、ホンダがカーナビゲーションシステム「インターナビ」の技術を使ったコンテンツとして発表した映像で楽しむ事ができる。これは、1989年の鈴鹿ポールポジションを叩き出したラップの走行データを基にエンジン音を再現。光の動きと共にセナの走りをもう一度堪能できる秀逸な映像は、第17回文化庁メディア芸術祭でもエンターテイメント部門の大賞を受賞した。
また、「セナ足」に関しては検索すると数多くの映像がヒットする。単なる伝説的逸話に留まらず、多くの人の心に刻まれた音であることがわかるだろう。オンボード映像から伝わるセナの走りと現代のF1のオンボード映像を見比べれば一目瞭然。暴れ馬を意のままに操るドライビングは、他の誰にも真似できない、まさに魂を揺さぶる走り。テレビを通じて伝えられた彼の走りは多くの人を虜にしたのだった。
セナに会いたい。彼の存在はまさに社会現象だった
当時のF1ブームを知らない世代には全く想像がつかないかもしれないが、セナが生きた時代は日本中がF1に熱狂した時代だった。鈴鹿のF1日本グランプリのテレビ中継は生放送ではなく、その日の夜20時から22時の録画放送。今のようにインターネットが無く、現地に居ないとレース結果は知り得なかったため、レースがいわゆるゴールデンタイムに放送された。それだけF1は当時、影響力のあるキラーコンテンツだったといえる。
そして、テレビを付ければ1日のうちにF1関連のCMを見ない日は無かった。アイルトン・セナは「昭和シェル石油」のCMに出演し、若い女性が「セナに会いたい」と想いを馳せるCMはセナのアイドル的な人気を象徴していた。また、ホンダのクルマ「プレリュード」のCMの「さぁ走ろうか(Just move it)」という彼のセリフを真似したことがある人も多いだろう。
さらに、「とんねるず」が出演した人気バラエティ番組では、石橋貴明らがレーシングカートでアイルトン・セナ本人と対決した。いったい当時いくらのギャランティーをセナに支払ったのか想像もつかないが、忙しいスケジュールをぬってセナは日本のテレビ番組に頻繁に出演。今やF1ドライバーがテレビ出演すること自体珍しいが、当時はこのように孤高のワールドチャンピオンがお茶の間に登場していたのだった。そう、彼はレースの代名詞とも言えるヒーローだった。
苦しんだキャリア後半に惹き付けられた人も多い
そんなセナの圧倒的な強さが下降線となったのが1992年。マクラーレン・ホンダの不振もあったが、ライバルのウィリアムズ・ルノーが車高を一定に保ち走行時に抜群の安定感を発揮したアクティブサスペンションの開発に成功し、開幕から5連勝。セナは窮地に追い込まれた。
しかし、第6戦モナコグランプリのレース終盤、タイヤトラブルでピットインしたナイジェル・マンセル(ウィリアムズ・ルノー)の前に立ち、新品タイヤに交換し、猛烈な勢いで追いつめるマンセルを押さえて優勝。ウィリアムズとマンセルの連勝を止めたレースは今も「F1史上に残る名レース」として語り継がれている。
また、1993年も記憶に残るレースがあった。セナのワールドチャンピオンへの道を強力にアシストしたホンダがF1から撤退し、マクラーレンは非力なフォードV8エンジンでシーズンを戦った。ウィリアムズ・ルノーの速さに到底勝ちようがない劣勢の中、雨のドニントン・パークサーキットでセナは猛烈な走りを披露。まさに「神のごとし」な走りで、2番手のデイモン・ヒル(ウィリアムズ・ルノー)に1分23秒もの差(ほぼ1周)の差を付け優勝した。これもセナの人生を特別なものにしたレースである。
最強・最速と言われたマクラーレン・ホンダ時代が終焉してもなお、苦しみを乗り越えて勝利を重ねるセナの姿は本当にカッコ良かった。マクラーレン・フォードの1993年は鈴鹿の日本グランプリを含めてシーズン5勝。ウィリアムズ・ルノーとの明らかな差を考えれば、チャンピオンの価値に匹敵するものだと思う。F1がコンピューターに支配され、チーム組織が強化されて巨大企業化していく過渡期にアイルトン・セナは人間の本当の強さを見せてくれたのだ。
若い世代をも惹き付けるセナの走り
10年程前から、日本のレーシングカート場では「セナくん」「セナちゃん」の名前をよく見るようになった。F1ブーム期にアイルトン・セナに魅せられたカップルの子供たちが「せな」と名付けられ、彼らはレーシングカートのレースやバイクのレースを戦っている(「セナ」は彼の苗字の一部だが)。「せな」という名前をもらった少年少女レーサーの中で、最近は地方レースで連戦連勝を重ねている阪口晴南(さかぐち・せな)など将来が楽しみな逸材も登場しはじめている。
また、セナに憧れる若手レーサーも多い。昨年、全日本選手権スーパーフォーミュラで王者に輝いた山本尚貴は25歳の若さだが、アイルトン・セナに憧れてレーサーを志したことを事あるごとに語っている。そんな山本はセナをイメージした黄色と緑色のヘルメットを使用するほど。今のレース界を代表するセナ・フリークだ。
また、最近レーシングカートからフォーミュラにステップアップしてきた10代のドライバーに「憧れのドライバーは?」と尋ねると、アイルトン・セナと答えるドライバーが多いことにも驚く。明らかに彼らはセナの没後に生まれた世代であるが、幼い頃に親と一緒に見たセナの映像が忘れられず、レーサーとしての理想像になっているそうだ。
セナの生きた時代から20年経った今ではレースのテクノロジーもドライビングスタイルも変化し、視覚的、聴覚的にドライバーの特徴を掴むのは難しく、誰が見ても分かるような違いを出せるドライバーは生まれてこない。F1では、独走で連戦連勝を重ねるドライバーに対し、心ないブーイングが観客席から巻き起こる時代になってしまった。分かりづらさが産む悲しい現実ではあるが、セナに憧れた若い世代のレーサー達にはセナの走りの真似はできなくとも、セナから学んだレースの精神論を活かして、人間的にも強いレーサーに成長してくれることを期待したい。
今も世界中の多くの人の心に刻まれるアイルトン・セナという孤高の存在。映画「アイルトン・セナ〜音速の彼方へ」のDVDを観るもよし、動画サイトに載っている映像を楽しむもよし、セナ関連の雑誌を読むもよし、没後20年経った今、当時を懐かしみつつ、アイルトン・セナというドライバーを思い出してみてはいかがだろうか。リアルタイムで知らないなら、ぜひこの機会にセナの存在を知って欲しいと思う。
【アイルトン・セナ】
1960年ブラジル・サンパウロ出身のF1ドライバー。4歳の時にレーシングカートに出会い、1977年に南米カート選手権で王者に。81年より渡欧し、83年にはイギリスF3選手権で王者に。さらにF3マカオGPでも優勝すると、翌年から2階級特進でF1デビュー。所属チームは「トールマン(84年)」「ロータス(85年〜87年)」「マクラーレン(88年〜93年)」「ウィリアムズ(94年)」。88年、90年、91年とマクラーレン・ホンダで3度のワールドチャンピオンに輝いた。94年のサンマリノGPで決勝レース中にクラッシュして事故死。日本ではホンダと共に戦うF1レーサーとして人気が高かった。