公園でタバコを吸うヤツは下等動物だ「人はなぜ人を差別するのか?」
あるいはみなさんの家の近くの公園もそうかもしれませんが、近ごろの公園は喫煙ダメ、ボール遊びダメ、犬の散歩ダメ、など、ダメなことがたくさんあります。公園に掲げられている看板を見るとそのことがわかります。
喫煙を例にとるなら、子どもが副流煙を吸い込む危険性や、吸い殻を拾って口に入れる可能性がゼロではないといった理由がそこにはあるのだろうと推測されます。
しかしそれでも、もし多様性を標榜するのであれば、タバコを吸う大人もいるということを子どもに知らしめる必要があるのではないでしょうか。そのためには、各公園は喫煙OKとすべきではないでしょうか? 「存在する」ものを「存在しない」ことにするところに多様性の受容など存在しないからです。
さて、今回は「多様性」と「好き嫌いの感情」について一緒に見ていきたいと思います。
好き嫌いって何だろう
喫煙は特に、好き嫌いで語る人が多いものです。臭いから問答無用にダメと言う人が多い。冒頭に挙げたことだって、じつは「嫌い」がベースにあり、その上に子どもをダシに使った自論をくっつけている――吸い殻を口にしないとは限らないなどと言っている。そんなことも言えるのではないでしょうか。このことを認めない人もいるでしょうけれど、お認めになる人もおられるでしょう。
もしそうであるなら、多様性は好き嫌いの感情に敗れたと言えます。別の例を挙げるなら、LGBTを認めるべきだと頭では考えているものの、実際にゲイの男性を前にしたら嫌悪感が先立って侮蔑の視線を発しそうになる、みたいなことです。
「多様性を認める」の裏側にあるもの
多様性を認めようという主張に多くの人は賛成しているはずです。なぜなら、あなたも何らか「マイナー」な性格を有しており、それを差別されると生きづらいと直感しているからです。毎朝4時に起きて、他人が見ると明らかにへんだと感じる体操をすることを習慣にしている人は、その「マイナー」な自分を差別されたのでは生きづらいでしょう。だから、まだ十分に多様性を認めない今の社会においては、そういった体操をしている自分を他者から隠そうとする、つまり誰にも言わないのでしょう。しかし同時に、おそらくは「へんな体操をしても別に他人に迷惑をかけているわけではないし」と思っており、明日の朝もへんな体操をするでしょう。
しかし例えば、部活の合宿や社員旅行において、他人と大部屋で寝起きすることになった場合、あなたが朝の4時からへんな体操をしたら、部屋を共にしている人たちはあなたに文句を言うはずです。言わないまでも心の中で差別するはずです。「こいつなんやねん。こいつと同じ部屋は勘弁」。
私たちの限界とその先
誰もが多様性を認めるべきだと頭では理解しつつも、心のどこかでは「ただし私に迷惑が及ばない範囲に限る」と但し書きをつけている。
ここに倫理と好悪、すなわち理性と感性の対立があります。この問題はその昔、いったんはカントが調停した問題だそうです。しかし、生活に密着したところに視点をとると、調停なんかしていない。「へんな体操をするヤツは頭がおかしい」「公園でタバコを吸うヤツは下等動物だ」。感情、すなわち感性が理性に先立っている。
このへんが現時点における「多様性」の限界でしょう。それはすなわち、私たちヒトがその内部に持っている矛盾が生み出しています。簡単に言うなら、頭では「いいこと」を考えつつも、その思考の途中に好悪の感情が芽生え、「理屈は肯定するが、ホンネでは否定する」ようになるということです。
どうやら私たち人間はその程度の生き物のようだ、というところから何かを思考するしかありません。