「宿命のライバル」という言葉は将棋観戦記者の造語ですが、それは木村義雄14世名人と誰のことだった?
勝負を語る際によく使われる「宿命のライバル」という言葉があります。倉島竹二郎(1902-1986)という著名な将棋観戦記者によれば、それは倉島自身が造った言葉とされています。
辞書を引いてみましょう。
現代の意味で「宿命」は、ほぼ「運命」と同義のようです。運命づけられたように相対する好敵手の存在は、勝負の世界の物語には欠かせないものと言えるでしょう。
1985年に刊行された倉島の著書『昭和将棋風雲録』には、次のように著されています。
倉島が「宿命の競争者(ライバル)」という言葉を作ってその関係を見立てたのは、昭和初期にぶつかり合った木村義雄八段(後に14世名人、1905-1986)と金子金五郎八段(後に九段、1902-1990)のことでした。なるほど、確かに両者は時代のトップクラスであり、年齢も近く、何度も対戦を重ねたライバルでした。『名人木村義雄実戦集』(全八巻)をひもとくと、戦前、木村-金子戦が延々と繰り返されていたことがわかります。
「序盤の金子、中盤の木村、終盤の花田」
以上のフレーズは、当時のトップクラスの特長をよく表しています。木村八段の兄弟子にあたる花田長太郎八段(1897-1948)もまた、昭和の名棋士の一人です。
金子八段は当時の将棋界でもっとも正統的な戦法と目された相掛かりを得意とし、後世に大きな影響を与えた理論家でした。一方で熱いハートの持ち主で、烈々たる闘志をもって木村八段、木村名人とぶつかりました。
ちなみに昭和中期に活躍し、序中盤の徹底的な研究を重ね、「打倒大山」を標榜して名人位まであと一歩と迫った山田道美九段(1933-70)は、金子九段の弟子です。山田九段は師匠の衣鉢をよく継いだ存在と言えるかもしれません。
1935年。将棋界の近代化を告げる実力制名人戦が始まります。木村八段は金子八段や花田八段などとの熾烈な競争を勝ち抜いて、名人位に就きました。木村名人の無敵時代となってからも、金子八段はよく戦い、平手戦での見事な勝利も残しています。
宿命のライバルの例
筆者は国会図書館や新聞のデータベースなどで「宿命のライバル」及びそれに似たフレーズを検索してみました。その限りでは、1933年の木村-金子戦以前で「宿命のライバル」という表現は見当たりませんでした(もしその例をご存知の方はご教示ください)。戦後は次第にその表現が普及していったようです。
「読売新聞」1954年12月14日朝刊に掲載されている広告では、雑誌『大相撲』(初場所特集号)の見出しに「宿命の好敵手 吉葉山 栃錦」とあります。吉葉山潤之輔(1920-77)は第43代横綱。栃錦清隆(1925-90)は第44代横綱です。
『日本経済新報』1955年5月号では「宿命の好敵手 山の阪急・海の阪神」とあります。これは関西の電鉄会社。典型的なライバル関係だったと言えそうです。
「朝日新聞」のデータベースでヒットした「宿命のライバル」という言葉が最も古く使われている記事は、将棋に関係するものでした。
木村義雄名人と大山康晴九段(1923-1992)の名人戦七番勝負第1局。
チャンピオンのダド・マリノ(1915-1989)と挑戦者の白井義男(1923-2003)の世界フライ級タイトルマッチ
記事は将棋とボクシングの歴史的な2つの対戦を「宿命のライバル二組」としてまとめて伝えています。
マリノ-白井戦は3回目の対戦で、この時は初めて世界チャンピオンの座がかかっていました。結果は白井選手の勝ち。日本人として初めて、世界王座に就きました。2010年、日本プロボクシング協会は5月19日を「ボクシングの日」に定めています。
木村名人(47歳)-大山九段(29歳)の将棋名人戦第1局は、先手番を得た挑戦者の大山九段が、5筋位取り中飛車という意欲的な序盤戦術を見せます。
(余談ながら、42年後の1994年名人戦七番勝負第1局、米長邦雄名人-羽生善治挑戦者戦では、若き羽生挑戦者も同様に5筋位取り中飛車を採用し、世間を沸かせました。これは偶然のことでしょうか)
この時の木村-大山戦は、大山挑戦者がほぼ最後まで居玉で戦うという異例の進行でした。
この第1局は木村名人が制したものの、後は大山挑戦者が4連勝。初めて名人位に就きました。木村名人は「よき後継者を得た」という名言を残して、ほどなく現役引退を表明します。
木村名人の真の「宿命のライバル」は誰か?
将棋界で「宿命のライバル」と呼ばれる関係はいくつか挙げられます。
たとえば関根金次郎(13世名人、1868-1946)と阪田三吉(贈名人・王将、1870-1946)。
また中原誠(16世名人、1947-)と米長邦雄(永世棋聖、1943-2012)。
年齢差も近く、また頂点を争った実績からも、これらの棋士の関係を「宿命とライバル」と呼んで、どこからも異論はないでしょう。
では前述の新聞記事にある、木村14世名人と大山15世名人の関係はどうでしょうか。両者の年齢差は18歳でした。
将棋界で最も多く「宿命のライバル」と称された関係は、升田幸三(1918-1991)と大山康晴かもしれません。
両者は名人戦七番勝負で9回対戦するなど、何度も頂点を争いました。両者の年齢差は5歳。ほぼ同世代です。
ただし両者の関係が特殊なのは、木見金治郎九段門下の兄弟弟子ということでした。升田、大山ともに「宿命のライバル」という表現に関しては、繰り返し違和感を表明しています。
倉島竹二郎は、升田の次の言葉を紹介しています。
改めて、「宿命のライバル」とはどういう存在か。言葉の生みの親である倉島は、次のように述べています。
木村、升田は13歳差。両者は新旧世代の代表者として、激しく争いました。なるほど、そういう関係はまさに「宿命のライバル」と言えそうです。
倉島は最初に、木村-金子を「宿命の競争者(ライバル)」と書きました。木村14世名人と名勝負を繰り広げた棋士は何人かいた。そして時代を経た後で、改めて考えた。もし一人だけ木村の「宿命のライバル」を選ぶとしたら、それは升田九段の他にいない、ということなのでしょう。
さて、倉島流の定義に従って、羽生善治九段(19世名人、1970-)の「宿命のライバル」を一人だけ選ぶとすれば、それは誰でしょうか。
対局数、タイトル戦で対戦した回数からすれば、谷川浩司九段(17世名人、1962-)、佐藤康光九段(永世棋聖、1969-)、森内俊之九段(18世名人、1970-)のいずれか、ということになるのでしょうか。
あるいは若くして亡くなった村山聖九段(1969-)や、後進の渡辺明三冠(永世竜王、永世棋王、1984-)の名も挙げられるかもしれません。
ファンの皆さんの見解もうかがってみたいところです。