2024年末で営業終了「味園ビル」はお笑いシーンにとってどんな存在だったのか、人気芸人らに与えた影響
大阪・ミナミにあるレジャービル・味園ビル(大阪市中央区)の2階の飲食店などの営業が、2024年12月31日をもって終了する。建物の老朽化などが懸念され、管理会社から2024年末でテナント契約終了の連絡があったという。
関係者に取材をしたところ、2階各店舗は2025年1月中旬には退去完了予定。一方、地下階にあるライブホール、味園ユニバースは音楽ライブが当面実施されるが、2025年5月のビルの取り壊し予定にあわせて営業を終えると思われる。
味園ビルは1950年代に商業ビルとして建設された。目玉のグランドキャバレー、ユニバースは「日本最大のキャバレー」と呼ばれるなど隆盛を誇った。1990年代には不況で各店舗が経営不振に陥り、空き店舗が増加。しかし2000年代に入り、テナント料の値下げなどのテコ入れに成功。さらにビル全体を覆う昭和のあやしいムード、そこに集まる個性的な店舗関係者や客らの存在によってディープスポットとして浸透した。
2015年には、渋谷すばるさんが主演をつとめた映画『味園ユニバース』が全国公開。同映画のヒットを機に、同ビルへやって来る客層がさらに広がった。著名人が飲みにやって来ることもあり、ばったりと出会うことも少なくなかった。
ヒコロヒー、街裏ぴんく、ヒューマン中村らも味園でお笑いの腕を磨いた
味園ビルの各テナントは、飲食店や音楽ライブの印象が強い。だが、実はお笑いシーンにとっても重要な場所だった。
2階にあるライブシアターのなんば紅鶴、なんば白鯨ではこれまで多くのお笑い関連のイベントが実施されてきた。また、ほかの飲食店舗でもお笑いライブが開かれたことがあった。ただそれらの飲食店舗はスペース的に広くないことから、演者と観客の距離が数十センチということも。また、飲食店ではお笑い芸人たちが働く姿も目立った。
味園ビルの目と鼻の先には、業界最大手・吉本興業が運営する、なんばグランド花月、よしもと漫才劇場がある。そういった位置関係も含め、味園ビルでおこなわれるディープなお笑いのイベントの数々はまさに「地下ライブ」と呼ぶにふさわしいものだった。
そして、そんな「地下ライブ」から後のスターも生まれた。
『R-1グランプリ2024』チャンピオンの街裏ぴんくさんは大阪で活動していた時期、なんば紅鶴、なんば白鯨を主戦場としていた。街裏さんは、筆者のインタビューに対し「フリー芸人のとき、味園ビルにあるライブハウスの白鯨、紅鶴のイベントに出て修行させてもらったから。お客さんの数が2、3人は当たり前で、多くても10人。みんな温かいから笑ってくれるけど、その環境に慣れたり、甘えたりしたらあかんから東京へ行った」(出典:SPICE 2024/10/19(土))と振り返っていた。
2013年の『R-1グランプリ』準優勝者・ヒューマン中村さんは2011年、初の単独ライブをなんば白鯨で開催した。ヒューマン中村さんは味園ビルの営業終了について「めちゃくちゃお世話になったので切ないです」と残念がり、「自分で会場を押さえて、お金も出しておこなった初単独の場所でしたし。その年『R-1』の決勝へ初めて行ったけど、もう次の『R-1』が迫っていて『ネタがない』と自分の中でいろいろ抱え込んでいたなかで単独を打ったんです。そのときに、来てくださった25人くらいのお客さんを前にして『この人たちは自分の味方なんや』と息を吹きかえすことができました。あの日がなければ今の自分はいないので、ほんまに青春やったなって思います」(出典:Lmaga.jp 2024/5/16(木))と当時の光景が目に焼き付いていると語っていた。
現在はテレビ番組で見ない日はないほどの売れっ子芸人・ヒコロヒーさんも、なんば紅鶴の舞台で腕を磨いた。ヒコロヒーさんは自身のブログに「50人以上のお客さん、紅鶴ぱんぱん、嬉しい悲鳴」「改めて、ネタをつくるのが、やるのが、コントが、好きだと、思わされました」(出典:地球ブログ 2013/4/23(火))と綴っていた。
「味園ビルがあったからこそ、僕は芸人を続けることができた」
なんば紅鶴にスタッフとして勤務しているピン芸人・村橋ステムさんは、なんば紅鶴、なんば白鯨で何度もイベントを主催してきた。村橋さんは2000年代中頃からお笑いの活動をスタート。しかし当時、インディーズの芸人が自分たちでイベントを実施するとなると、会場は市や区が運営する施設の一室がほとんど。ただそれらはレンタル料が高く、実入りはほとんどなかった。そのようにただでさえ会場の選択肢が限られていたところに、大阪府政・市政の方針で文化施設がどんどん縮小される事態が重なった。
その頃、村橋さんは先輩芸人の誘いでなんば紅鶴、なんば白鯨の舞台に立つようにもなっていた。そして自身主催のライブをそこで開くようになった。村橋さんは「紅鶴、白鯨は『会場費はその日のチケットの売上の折半』というやり方で、若手芸人でお金もない自分たちにはすごくありがたいシステムでした」と思い返す。
また「僕は事務所にも所属していないフリーの芸人。吉本興業さん、松竹芸能さんの所属芸人であれば月に何度か自社の舞台に立てる。でも自分はそれがない。そんな僕らのような芸人を紅鶴、白鯨はたくさん受け入れてくれました。しかもそこで、ネタライブだけではなく、大喜利などいろんな企画も幅広くやらせてもらえました。味園ビルの飲食店で出会ったお客さんがライブに来てくれることもありましたし。味園ビルがあったからこそ、僕は芸人を続けることができたんです」という。だからこそ2024年の営業終了が伝えられた際、いろんな気持ちが込み上げてきた。しかし、村橋さんのなかで一つの決意が固まった。
「味園ビルの営業終了をきっかけに、東京へ行くことを決めました。実は以前から葛藤もあったんです。というのも、味園のお客さんはみんな温かいし、外のライブではできないような過激なネタでも笑ってくれる。ただそういう環境に浸かりすぎて、逆に外に出て行けなくなっていました。実際に『R-1』予選でも、味園でウケてるネタが全然ダメだったり。居心地が良すぎて、芸人としてチャレンジできなくなっていたんだと思います。だからこそこの機会に味園に一度背を向け、東京で勝負しようって」。
「社会に受け入れられず、生きづらさを感じる人が、味園では『おもしろい』と親しまれる」
「なんば紅鶴、なんば白鯨に憧れてお笑いの劇場を作りました。味園ビルの存在自体、ちょっと足を踏み入れづらいけどワクワクする場所。だからこそ、そこに集まる人も『自分はこういうところで遊んでいる』と言いたくなる。東京には味園ビルのような雰囲気の場所は見当たらない気がします」。
そのように話すのは、インディーズのお笑いライブを中心におこなう劇場、楽屋Aと舞台袖を運営する加藤進之介さん。加藤さんは、楽屋Aや舞台袖に出演している芸人に「今までで一番おもしろかったライブは?」と尋ねると大抵、なんば紅鶴、なんば白鯨で開催されていたイベント名が挙がると話す。
「味園ビルの雰囲気がそうさせていると思うのですが、あの場所では、本当におもしろいことをやったり、見ることができたりする。それこそ“昼間”の社会ではなかなか受け入れられず、生きづらさを感じる人が、味園では『おもしろい』と親しみを持たれる。なんなら逆にそこでは『普通の人』と思われたり(笑)。だから本当のインディーズのお笑いライブって、紅鶴さん、白鯨さんでやっているようなものだと思うんです。僕には、あそこまで振り切ったものをやることはできません」。
ちなみに加藤さんもかつて、味園ビルの飲食店でバイトを経験。だからこそ「各テナントはおそらくまた別の場所で営業を続けられると思いますし、お店として新しい魅力が生まれるはず。でも『勇気を持って足を踏み入れたら別の世界がそこにある』みたいなあの雰囲気って、ビルそのものの“背景”からきているので、雰囲気の再現は難しい気がします。あれはビル自体が放つ特有のものですから」とコメントする。
味園ビルの営業終了で、大阪のお笑いシーンのバランスにも変化が?
さらに味園ビルの営業終了によって、今後の大阪のお笑いシーンのバランスにも影響が及ぶのではないかと加藤さんは分析する。
「これはあくまで僕の考えですが、たとえば紅鶴さんの大阪のお笑いシーンの立ち位置は、アンダーグラウンドとしてもっとも影響力が強いもの。その対極として吉本興業さんがポップなお笑いの文化を作り上げていらっしゃる。楽屋A、舞台袖はうまい具合にその真ん中でやっていけている。なんなら大手のライブなどに出演する足掛かりにもなっている。でもそういうバランスの良さはやはり、味園ビルに紅鶴さん、白鯨さんがあったから。しかし味園ビルがなくなることで、少なからずそういう大阪のお笑いシーンのバランスは変わる気もします。かといってウチがこれまでの味園ビルのなかにあった紅鶴さん、白鯨さんのような役割を担えるかといえば、それは難しい。大阪のお笑いのカウンターカルチャーがなくなるのではないかと思います。そうなると、賞レースを目的とせずとにかく“濃いお笑い”をやっていた芸人さんがいなくなる可能性もあるかもしれません」。
アンダーグラウンドな文化の発信地だった、味園ビル。そこでいくつかのお笑いも育った。そんな味園ビルでしか表現されないようなお笑いが今後、見られなくなるかもしれない。別場所へ移転する店舗が多いようだが、やはり「味園ビルのなかにある」という建物の「力」は大きいものがあった。一つ言えるのは、お笑い芸人や関係者たちにとってそこは唯一無二の場所だったということだ。