「起業家のように企業で働く」とは【小杉俊哉倉重公太朗】第1回
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今回のゲストは、小杉俊哉さん。NEC、マッキンゼー・アンド・カンパニー、ユニデン人事総務部長、Appleコンピュータ人事総務本部長を経て独立。大学では「リーダーシップ論」「研究開発と組織」「テクノロジーマネジメント論」等の講義を担当されています。著書も多数あり、コロナ禍の今を生き抜くヒントがたくさん掲載されていることから、ゲストにお招きいたしました。輝かしいキャリアの裏には、自律神経失調症になるほど自分を追い詰める出来事もあったそうです。彼のライフストーリーを伺いました。
<ポイント>
・失意の中マッキンゼーを辞めてから、立ち直るまで
・人事総務部長になるも、上司と部下から吊し上げられる
・Appleで、自身も含めた上層部の解雇を実行する
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■自律神経失調症になるほど自分を追い込む
倉重:今回のゲストは元Appleの人事総務本部長の小杉俊哉さんです。慶應義塾大学では、単位にならないのに、選考が必要なほど人気のサブゼミを担当されてきました。本日はコロナ時代の生き方・働くマインドについて伺いたいと思います。最初に、小杉さんのキャリアの生い立ちをかいつまんでお話いただけますか。
小杉:はい。早稲田大学卒業後、NECに入社。希望していた海外営業に首尾良く入れて、南西アジア部でインド担当になり、4年ほど勤務した後、社命で法務部に異動になりました。
倉重:法務のご経験もあるのですね。
小杉:はい。倉重さんの前で言うのも恥ずかしいのですが、法務も担当しました。通商関係だったので、当時は日米半導体協定やアメリカの独禁法域外適用にも関わりました。
倉重:渉外弁護士と一緒にやっていくという感じですね。
小杉:中国やインド向けの技術移転に絡む契約をさせていただきました。とてもエキサイティングで、「プロとして仕事するのは面白そうだ」と思ったのです。経営コンサルタントはもっと幅広く扱うと聞き、「一度やってみたい」と思うようになりました。
倉重:アメリカに留学されるときは会社を辞めて行かれたのですか。
小杉:社費で候補生になり、法務部から留学に行かせてもらえることになりました。ただ、ビジネススクールに行きたかったのですが、法務部なので「ロースクールに行け」と言われてしまいました。そこで、「ロースクールに行った後、ニューヨークの弁護士事務所で1年間働かせてくれ」という条件をつけたところ、「お前はそんなことをしたら辞めてしまうだろう」と言われてしまったのです。なぜ分かってしまったのでしょうか?(笑)。結局、同期に権利を譲って自分で勉強し、たまたま1校だけ奇跡的に受かったのがMITだったのです。
倉重:奇跡でMITに受かるのはすごいことです。
小杉:他は全部落ちました。そのときがちょうど30歳です。わたしは27歳で結婚して、「大変なことは一気にしてしまおう」という考えで、子づくりと留学準備を同時にしました。
倉重:それは大変でしたね。
小杉:余裕があるとダメだと思って、追い込みました。仕事をしながら予備校に行き、子どもが生まれ、借金の算段もしていたのです。結果的に自律神経失調症になってしまいました。
倉重:精神的にストレスがかなりあったのですね。
小杉:ええ。成績が上がらなくてTOEFLもGMATも全く伸びず、「何で社費留学を断ってしまったのか」という思いが頭をかすめたりもしました。さらに、子どもが生まれた後は、夜泣きがひどくて眠れなくなりました。
倉重:そこで勉強し続けるのはすごいことです。
小杉:妻が大変だったので、自分も休みの日はできるだけ子どもの面倒を見ました。
倉重:ご家族には反対されませんでしたか?
小杉:それはよく聞かれるのですが、学生時代からお互いを知っていたので、私が言い出したら聞かないことも分かっていたし、前向きな方向の挑戦なので問題ありませんでした。ただ、「絶対に経済的に不自由させない」という約束はしたのです。
倉重:「苦しいのは今だけ」ということですね。
小杉:というよりも、「会社を辞めても、転職をしても、絶対に前より悪くなるようにしない」という条件のもとに好きにさせてもらったのです。もともとウチは家計簿はつけていないのですが、妻は心配性なので夫婦喧嘩の火種になってしまうからです。だから、妻はうちの財務状態は一切知りません。「お金はわたしが全部面倒を見るので、好きなようにやってもらっても、何とかする」という約束を35年間守り続けています。
倉重:素晴らしいです。無事に留学できて、その後コンサルになられるわけですね。
小杉:そうです。その中でも一番大変そうなところを選んでしまいました。
倉重:マッキンゼーですね。
小杉:結果的に、やはり大変でついていけませんでした。所属していたのは14カ月間だけです。当時は「早々に見限った」「コンサルのやり口は分かった」と言っていましたが、実際ついて行けなかったというのが本音で、キャリアとしては失意のままに辞めた感じです。
倉重:失意の中コンサルを辞められてからの立ち直りを教えてください。
小杉:当時は強がっていたし、みんな辞め時を探っていたので、逆に同僚達からは早期決断の勇気をたたえられました。カラオケバーを貸し切って送別会を開いて、パートナーやマネジャーたちも来てくれて温かく送り出してくれたのです。当時一緒に働いていた人たちとはパートナーも含めて今でも付き合っていますし、仕事も一緒にさせてもらっています。
倉重:そこからは事業コンサルではなくて事業会社に行ったのですね。
小杉:はい。「自分はコンサルタントに向いていないのかもしれない」と思い、先輩から誘われたユニデンという通信メーカーに入って、2年弱いました。ここでも自律神経失調症になってしまったのです。晴天の霹靂で人事総務部長になったのが33、4歳のとき。一部上場企業で人事総務の経験もないですし、部下を持った経験もないのに部長になってしまったので、当然ひどい目にあいました。15人いた部下から、地下室で鍵を掛けられ吊し上げにあったこともあります。
倉重:どういうことですか?
小杉:最初は、一代で一部上場企業にした創業会長から経営を学んで経営者になりたいと思って入ったのですが、まさか自分が人事をやるとは思ってもいませんでした。突然会長から人事総務をやれと言われました。チャレンジだと思って引き受けたのですが、一言で言うと生意気だったのでしょう、古参社員に足を引っ張られました。わたしの直属の部下も決起して締め上げてやろう、ということで部下全員から糾弾されました。
倉重:その2年間の間もうまくいかなかったということですか。
小杉:吊るし上げにあったのは入社3、4カ月ぐらいのときです。前職の経験からもう絶対に逃げるのはやめようと思っていたので、一人ひとりと話し合いをして、「わたしに何をしてほしいか」「どうしたらあなたはもっと仕事がしやすくなるのか」ということを毎日話し合いました。そうするといろいろと要望がでてくるようになり、その通りだと思ったものは役員会に上げたり会長に直訴したりしているうちに、「この人がいると仕事がやりやすいな」と思ってもらえるようになったのだと思います。だんだんと部下たちが応援してくれるようになりました。
倉重:経験もないところからすごいですね。
小杉:そうするしか他になかったのです。そこで「役職では人は動いてくれない」ということを思い知らされました。何が人事部長だ、何がコンサルだ、何がMBAだと。過去の経験や経歴は関係なくて、彼らにとってこの人間が役立つかどうか、信頼できるかどうかしかないわけです。
倉重:最初は少し鼻持ちならない感じだったのかもしれないですね。
小杉:面白くなかったんだと思います。「会長に金魚のフンみたいにくっ付いて回っているあいつは一体何なんだ」と思われていたのでしょうね。人事総務部長になって過去の書類を調べて分かったのですが、わたしの前任者は2年間で7人代わっていました。やらせてみてダメならすぐ代えるという方針なので、1年半人事総務部長をした私の記録は、当時最長不倒でした。
倉重:それだけ続くのは逆にすごかったのですね。
小杉:はい。そのようなことがありまして、会長には言いたいことも言わせもらってとてもいい関係だと思っていたのですが、彼は1年ほどで引退してしまいました。ちなみに任期の途中でも、任せた社長を途中で解任して自身が返り咲くということを何回も繰り返している人なのです。そのとき次の社長を任せられた人は、長年番頭役の人でした。この人からまたいじめられました。
倉重:社内派閥的なことですか。
小杉:そうではなく、私だけでなく新入りのコンサル出身者が幅を利かせているのが嫌だったのではないかと最初は思っていました。呼ばれるたびに怒鳴りつけられることが、1日に4~5回あったのです。特に人事は口を出しやすいし,それ以上に一言で言うとタイプが合わなかったのでしょう。
倉重:相当のストレスですね。
小杉:はい。物理的に首が回らなくなったり、電話が鳴ると「また社長か」と思って毛穴が開いてしまったりという症状が出ました。完全に今で言うところのメンタル疾患です。
倉重:部下とはうまくいったと思ったら、今度は上との関係性が問題になったのですね。
小杉:そうです。ただ、「もう絶対に逃げない」と決めていましたので、どうすればいいか考えました。そして「この人を全部受け入れて吸収しよう、染まろう」と思ったのです。社長室の前に行くと手を広げて、「わたしはあなたを全面肯定します」とポーズを作ってから入りました。
倉重:攻撃しませんよということですね。
小杉:はい、「あなたの言うこと全てを肯定して、全部受け止めます」というつもりでやりました。社長の長年の部下や秘書に対しても、「次はどう言うか?」「こういう場合はどうするか?」ということを聞き、わたしの苦手な先回りしてちゃんと準備をする、きちんと都度報告する、ということをしているうちに、当然のことながらだんだん怒られなくなりました。
あるとき「小杉、お前ようやく分かったな」と言われ、その途端にヘナヘナと力が抜けました。そして、「ああ、もう辞めよう!」と思ったのです。
倉重:それで辞めようと思ったのですね。
小杉:ええ。吸収できたと思いました。
倉重:よくそこで吸収しようと思いましたね。
小杉:やはりコンサル会社で逃げた、という経験が自分はとても嫌だったのです。ですから「認めてもらえた、消化できた」となったら、もうここにいる理由はないと思いました。もともと創業会長から経営を学ぼうと思って入社したわけですから。余談ですが、退職後にその社長とOB会でお会いしたときに、私を育てようと思って下さっていたことが分かり、涙が止まらなかったことがありました。「ああ、あのとき逃げなくてよかった」と心の底から思いました。
倉重:その後のAppleにスカウトされたのですね。
小杉:はい。ヘッドハントでした。実はマッキンゼーを辞めるときにヘッドハンターにアプローチしましたら、「まったく市場価値がない中途半端な人間」と言われたのです。「国内の営業をしたこともないMBAホルダーのコンサルタント上がりが一番使えない」と言われました。ところがそう言った張本人のヘッドハンターがわたしのことを全く忘れていて、「ぜひあなたにやってほしい」と声をかけてきたのです。そして、かっこよく言えば、声を掛けられた中で、一番大変そうなところがAppleだったということです。
倉重:すごい変わりようですね。
小杉:そうですね。本来の会社が求めた人事本部長の人材スペックは40代半ばだったので、若かったですが一部上場企業の人事総務部長をしたという経験が評価されました。
倉重:Appleの人事本部長は何歳のときですか?
小杉:36歳です。自身も使っていてAppleのブランドも好きでしたし、人事の立場で本社と一番交渉ができそうな会社だと思って入りましたが、それが大変でした。
倉重:ジェットコースターみたいなキャリアですね。
小杉:まず、入社したときの当時の社長に辞めてもらったのですが、その戦いはすさまじいものがありました。刺すか刺されるかという感じでした。
倉重:Appleには何年ぐらい居たのですか。
小杉:3年半です。外資系人事責任者の寿命は短いので、当時は業界の中でも長かったと思います。最後は業績悪化にともなうリストラです。スティーブ・ジョブズが戻って10カ月ぐらいは被っていたのですが、とにかくリストラクチャリングしなければいけないということになりました。米系企業はすぐヘッドカウントを持ち出します。「この売上げに落ちたなら、この人数にレイオフしろ」という命令をそれぞれの国の事情などお構いなしに押しつけてきます。
ですが、そのまま実行したらもうこの会社はもう日本ではやっていけない、と思いました。「日本は労働法も雇用慣行も違うので、やり方は任せてくれ」と交渉し、ヘッドカウントではなくて人件費を削減するということにして数字を握りました。わたしがしたのは、共同責任でしょう、ということで、給料の高い経営陣から辞めてもらうことでした。役員・本部長は全員辞めてもらうよう説得し、わたしも本部長でしたので最後は自身をクビにしました。本社から来ている本部長クラスにも全員帰ってもらいました。
倉重:最後は自分も腹切りということですか?
小杉:そうです。自分も切りました。米本社は前代未聞のやり方に相当びっくりしていましたし、そのことは経済紙にも載りました。
倉重:「最後は自分をリストラ」というのは、ちゃんとした人事の人はそうするんですよね。
小杉:もともと企業の社長になりたかったので、「外資系で」と思っていたのですが、入ってみると本社の言いなりで、振り回されて自由度もないですし、給料は高いかもしれませんが面白くないので「もう会社勤めは十分だ」と考えて、会社勤め自体を止めて独立を決めたのが39歳です。
倉重:独立が39歳ですか。それで20年ぐらいですね。
小杉:もう24年目で、今62歳です。フリーランスとしては早いでしょうね。友人達といくつか会社を作ったり,個人会社もありますが、その裏側では98年からずっと個人事業主です。
(つづく)
対談協力:小杉 俊哉(こすぎ としや)
合同会社THS経営組織研究所 代表社員
慶應義塾大学大学院理工学研究科 訪問教授
早稲田大学法学部卒業後、日本電気株式会社(NEC)入社。自費でマサチューセッツ工科大学(MIT)スローン経営大学大学院修士課程修了。マッキンゼー・アンド・カンパニー、ユニデン株式会社人事総務部長、アップルコンピュータ人事総務本部長兼米アップル社人事担当ディレクターを経て独立。
慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科准教授などを経て、合同会社THS経営組織研究所を設立。元立命館大学大学院テクノロジー・マネジメント研究科客員教授。元慶應義塾大学大学院理工学研究科特任教授
ふくおかフィナンシャルグループ・福岡銀行、エスペックなどの社外取締役を務める。長年、ベンチャー支援や、公立小中高校教諭教育、国家・地方公務員教育も行っている。専門は、人事、組織、キャリア、リーダーシップ開発。
組織が活性化し、個人が元気によりよく生きるために、組織と個人の両面から支援している。2006年から13年半の間、学生からの要請で単位にならない自主ゼミを開催し続け、奇跡のゼミと呼ばれる。2020年から社会人個人向けのオンラインサロン「大人の小杉ゼミ」も主催。
著書に『起業家のように企業で働く』(クロスメディア・パブリッシング)、『職業としてのプロ経営者』(同)、『リーダーシップ3.0』(祥伝社)など多数。