「どうする家康」姉川の戦いは、浅井・朝倉連合軍の奇襲攻撃からはじまった
大河ドラマ「どうする家康」は、姉川の戦いのシーンだった。姉川の戦いは浅井・朝倉連合軍の奇襲攻撃だったといわれているが、その点を詳しく考えてみよう。
姉川の戦いの経過を詳しく記すのは、元亀元年(1570)6月28日付織田信長書状(細川藤孝宛:「津田文書」)や『信長公記』である。特に前者は、合戦直後に記された生々しい記録である。以下、それらの史料により、姉川の戦いの経過を述べておこう。
元亀元年(1570)6月28日午前10時頃、浅井・朝倉連合軍は味方の横山城(滋賀県長浜市)を救援すべく、野村まで進軍した。浅井軍は5~6千、朝倉軍は約1万5千の軍勢だったという。その直後、信長軍が浅井・朝倉連合軍を攻撃し、見事に勝利した。
周辺は死骸ばかりとなり、信長軍が討ち取った敵の首も無数だったという。仮に、横山城の城兵が降参を申し出ても、信長は決して許さないという強い決意を見せた。
ところで、淡海文化研究所所長の太田浩司氏は、信長書状の追而書(おってがき:追伸)に注目する。そこには、信長の馬廻衆と徳川家康が先陣争いを演じ、家康は池田恒興らに朝倉軍との戦いを命じ、信長の馬廻衆が浅井軍と戦ったと書かれている。
太田氏の指摘によると、横山城を攻囲していた織田軍は、姉川の南岸まで回り込むだけの時間がなかったという。その結果、信長と家康は自らが陣頭指揮をして、戦う羽目になったと指摘する。
つまり、信長の馬廻衆と家康が先陣争いをしたというのは聞こえがいいが、実際は浅井・朝倉連合軍の奇襲攻撃を受けたので、すぐに対処せざるを得なかった実情が書かれているというのである。
浅井・朝倉連合軍の奇襲攻撃を匂わせる記事は、『信長公記』でも確認できる。ただ、同書は浅井・朝倉連合軍の南下について「退却するのではなく、戦いを挑んできた」と記すのは、信長の失態をカムフラージュするための表現だったと太田氏は指摘する。
とはいえ、織田・徳川連合軍は、辛うじて浅井・朝倉連合軍に勝利した。しかし、浅井・朝倉連合軍は壊滅的な打撃を受けたのではなく、滅亡までに3年もの歳月を要したのである。
主要参考文献
太田浩司「文献から探る姉川合戦」(渡邊大門編『信長軍の合戦史 1560-1582』吉川弘文館、2016年)