【深読み「鎌倉殿の13人」】坂東八平氏の一つ大庭氏の流れを汲む大庭景親とは
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の2回目は、國村隼さんが演じる大庭景親が登場した。大庭景親は坂東八平氏の一つ大庭氏の流れを汲むといわれているが、どういう人物だったのだろうか。
■大庭氏とは
大庭氏とは坂東八平氏の一つで、鎌倉氏の末流である。千葉・上総・三浦(和田)・土肥・秩父(畠山)・大庭・梶原・長尾の8氏が坂東八平氏の面々である。
大庭氏の祖・鎌倉権五郎景政は、後三年の役で右目を矢で射られたが、それでも戦い続けた逸話の持ち主である。12世紀初頭、景政は大庭御厨を開発し、伊勢神宮に寄進した。
大庭御厨は、現在の神奈川県藤沢市・茅ヶ崎市などにまたがる広大な御厨だった。御厨とは、伊勢神宮に神饌を貢進する所領のことである。
景政以降の子孫は、代々で大庭御厨の支配を行った。そして、景政の孫・景忠の代に至って、地名の「大庭」を名字にしたのである。
やはり、大庭氏は東国の有力な豪族と考えてよいだろう。
■大庭景親とは
大庭景親は、景宗の子として誕生した。兄は、景義。残念ながら、景親の生年は不詳である。また、父・景宗の生涯についても、詳しくわかっていない。
天養元年(1144)、源義朝が三浦氏らとともに、大庭氏が支配する大庭御厨に攻め込んで来た。しかし、朝廷は義朝の行為を咎めなかった。
保元元年(1156)に保元の乱が勃発すると、景親は兄の景義とともに義朝の率いる軍勢に加わった。このとき、景義は為朝の射た矢が膝に刺さり、重傷を負った。
景親は景義を救い出したものの、以後、景義は歩行が困難となった。これにより景義は隠退し、家督を弟の景親に譲ったといわれている。
平治元年(1159)の平治の乱で、景親は義朝の軍勢に加わって、平清盛の率いる軍勢と戦った。しかし、結果は義朝の敗北に終わり、景親も囚われの身となった。
ところが、景親は平氏側の意向によって、運良く助命されることになった。大きな恩義を感じた景親は、名馬を清盛に贈り、東国の後見を任されたのである。
こうして、一時は苦境に立たされた景親は、平氏に取り立てられることによって、東国で権力を握ることになったのである。
■むすび
景親は、先祖代々から大庭御厨を支配する権力者だった。平治の乱後は命の危険すらあったが、清盛の計らいで何とか生き永らえた。今後、景親がどうなるのかは、追々述べることにしよう。