キング・オブ・レフトフック
2023年4月26日、第63代日本ライト級チャンピオンの宇津木秀が王座から転落した。3ラウンドKO負けだった。2022年2月8日に同タイトルを手に入れてから、2度の防衛に成功。プロデビュー以来12戦全勝10KOと、評価を高めていた矢先の黒星だった。
敗戦直後に再起を決めた宇津木は、練習を開始。ディフェンス面を強化し「相手のパンチをもらわないボクシング」を課題に新たなスタートを切った。
「早く倒そうと、気持ちが先走っていたかもしれません」
宇津木は、あの日をそう述懐する。
「険しい道だということは分かっていますが、自分の夢は世界チャンピオンですし、絶対に諦めません」
宇津木の言葉を耳にした私は、彼にある提案をした。
「吉野弘幸さんに会ってきたらどうだ?」
宇津木はワタナベジムから誕生した24人目の日本チャンピオンであり、初代が吉野氏である。日本ウエルター級タイトルを14度防衛。左フックを武器に12連続KO勝ちをマーク。OPBF東洋太平洋ウエルター級王座、日本ジュニアミドル(現スーパーウエルター)級王座も獲得。1993年6月には、WBAジュニアウエルター(現スーパーライト)級タイトルにも挑んだ名ファイターだ。
毎試合、後楽園ホールを満員にしていただけでなく、幼い頃から逆境を乗り越えてきた強靭なハートを持つ。それでいて飾らず、周囲への気遣いを忘れない。私も含めて後輩たちは、「太陽のような人」と敬愛している。
今回、私は物書きとして、敢えて吉野氏本人に幾つかの質問をした。その足跡を、宇津木も知っておくべきだと感じたからだ。
1967年8月13日に東京都葛飾区で生まれた吉野弘幸は、小学6年の時、父親と死別している。やがて彼と弟を養っていた母が、良からぬ人間の連帯保証人となったことから、苦しい生活を送る。チンピラのような借金取りが自宅にやってきては、心無い言葉を浴びせた。高校に進学してバイクに乗って楽しみたいと考えていた吉野氏の夢は、15歳にして消え失せる。
中学卒業と同時に運送会社に就職。その一方でプロボクサーを志すが、仕事に追われ、ジムに通う時間など無かった。ほどなく銀座の中華料理店を新たな職場とし、品川区五反田のワタナベジムに入門したのは1983年11月19日。父の4度目の命日だった。
1985年2月にミドル級でプロデビューするが、2連敗。共にKO負けだった。
「望んだ人生じゃなかった。高校にも行けず、空しい、淋しいという気持ちがあった。ボクシングを途中で止めてしまったら、俺に何が残るんだ、という思いでやっていた」
3戦目から適正ウエイトであるウエルター級に落とし、同時に中華料理屋では岡持を担当。岡持とは、料理や食器を持ち運ぶ際に用いるステンレス製の箱のことだ。吉野氏は右手で自転車のハンドルを握り、多い時には10皿の丼が入った岡持を左手で持って配達を続けた。料理が冷めないように、麺類が伸びないうちに、もちろん溢さないように運ぶなか、ある企業の社員からは「岡持はエレベーターを使うんじゃない。階段で行け」と吐き捨てられ、6階、7階を駆け上がって届けたこともある。
「今振り返れば、ああいう思いをして良かったね。どん底を経験したからこそ、へこたれずに続けられたから。結局、人生って自分を信じ切れるかどうかだ。俺は自分を信じて、チャンピオンを目指した」
1988年3月21日、初来日した時の統一ヘビー級王者、マイク・タイソンがトニー・タップスを2ラウンドで仕留めた興行の前座で、当時20歳だった吉野氏は日本ウエルター級タイトルに挑む。チャンピオン、坂本孝雄氏は23歳。同タイトル3度目の防衛戦だった。戦績は6勝(6KO)1敗。一方、7勝(4KO)3敗1分けの吉野氏は同級8位。
「下馬評では十中八九、坂本さんの勝利。俺は咬ませ犬みたいなものだった。坂本さんは日本でアマを経験後に渡米し、プロの世界チャンピオン、ジョニー・バンファスだったかな? とスパーしてダウンを奪ったって話だった。アメリカでも活躍できそうな逆輸入ボクサーとして、鳴り物入りで日本でプロデビュー。トップランカーたちを皆、戦慄のノックアウトで下し、凄いインパクトだった。
そんな人に向かっていくんだから、こっちは覚悟を決めた。『絶対に倒れない』『絶対に負けない』という強い気持ちでリングに上がったし、集中してゴングを聞いた」
その言葉通り、挑戦者はオープニングベルからアグレッシブに前に出る。チャンピオンのお株を奪うような速いジャブ、左フックでリズムを掴む。ボディーブローも冴えた。第3ラウンドにショートの左を喰らってグラつくシーンもあったが、吉野氏は手を緩めない。同ラウンド終了間際、続く4回にも2度、左フックで王者を沈めてベルトを奪った。
「坂本戦は相打ちでカウンターの左フックが当たった。勇気を持って、タイミングが合えば倒せるんだと実感した」
以来、左フックが吉野弘幸の代名詞となる。12連続KOも、全て左フックで相手を料理した。
元々サウスポーであることに加え、岡持で鍛え上げた左。ファンは吉野氏のノックアウトに狂喜したが、苦難を乗り越えたからこそ身に付けた左フックであった。
数々の激闘を重ねた後、吉野氏は2005年に京成電鉄「青砥」駅前にエイチズ スタイル ボクシングジムを開いた。自身が日本チャンピオンとなった日から、ちょうど17年後の3月21日にオープンした。
宇津木がジムの扉を開けると、吉野氏は気さくに声を掛けた。そしてその日、指導しなければならない会員さんとの時間を終えると、宇津木とのミット打ちを始める。
「力まなくていい」
「このパンチが当たれば、相手は倒れるから」
「力を抜いて、タイミングで」
丁寧に、“あの左フック”を伝える。
宇津木は「無茶、難しいです」と繰り返しながらも、食らいついていく。一通り練習した後、吉野氏は言った。「気晴らしに来たらいい。いつでも待ってるよ」
エイチズ スタイル ボクシングジムで数時間を過ごした宇津木は、しみじみと話した。
「噂通りの温かい方ですね。8ラウンドくらい、僕のために熱心に教えて下さって……頑張らなきゃと思いましたよ。もうガソリン満タンです。自分も、ああいう人になりたいです」
前日本ライト級チャンプもまた、太陽を浴びたようだ。宇津木の未来、そして、エイチズ スタイル ボクシングジムが更に輝くことを祈念したい。