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【戦国こぼれ話】佐々成政が軍用金を埋蔵したという「黄金伝説」は史実なのだろうか。その意外な真実

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
佐々成政の黄金伝説は、史実として認めてよいのだろうか。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 先日、テレビ番組で佐々成政が軍用金を埋蔵したという「黄金伝説」を取り上げていた。それが事実ならば、ぜひ探しに行きたいところだ。はたして、「黄金伝説」は史実として認めてよいのだろうか。

■佐々成政と羽柴(豊臣)秀吉

 佐々成政は尾張の出身で、織田信長に仕えた。信長の命に応じて各地を転戦し、黒母衣衆の筆頭にまで上り詰めた。その後も信長の厚い信任を得て、各地で大いに軍功を挙げた。

 天正3年(1575)8月、越前一向一揆を平定した恩賞として、越前府中上2郡を与えられた。さらに天正10年(1582)、成政は越中の神保長住を追放すると、富山城(富山市)を拠点として越中国を支配した。

 ところが同年6月、織田信長が本能寺で明智光秀に急襲され、自害した。主を失った成政は、信長の後継者となった羽柴(豊臣)秀吉と対立したが、翌年に降伏。越中国の支配を安堵された。

 天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いで秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が対立すると、成政は反秀吉の姿勢を示した。結果、秀吉から討たれそうになり、降伏したのである。 

■埋蔵金伝説

 成政は秀吉に降伏した際、いつか必ず復活すると心に誓い、鍬崎山(くわさきやま:富山市)に莫大な軍資金を埋蔵したといわれている。一説によると、軍用金として数百万両の黄金を49個の壷に納めたといわれている。

 かつて成政が支配した現在の富山市内には、「朝日さす 夕日かがやく鍬崎山に 七つ結び 七結び 黄金いっぱい 光かがやく」という里歌が伝わっている。この歌に隠し場所が暗示されているというが、埋蔵された場所は不明である。

 実は、埋蔵金の隠し場所は、平家の落人の集落だった富山市有峰の洞窟という説がある。あるいは、鍬崎山というのは、岐阜県飛騨市の桑崎山であるという説もあるが、真相は不明といわざるを得ない。

 これまでに多くの埋蔵金ハンターが佐々成政の埋蔵金を発見すべく、一攫千金を狙って探索したが、見つかったとの報告はない。仮に見つかったとしても、口外しないかもしれないが・・・。

■まとめ 

 これまで、戦国大名の埋蔵金については、徳川氏、明智氏など数多くの伝承が残っている。共通して言えるのは、同時代史料に記載がないこと、ほぼすべてが口伝や後世の史料に拠っていることだ。

 加えていうならば、多少の銭が発掘されることがあっても、驚くような大金が埋蔵されていた例は皆無だということである。つまり、埋蔵金伝説とは文字通り「伝説」にすぎないことを意味している。

 成政の例でいうならば、領民が成政を慕って、「きっと成政様がまた越中に帰ってくるはず」と願い、創作したものにすぎないと考えられる。

 なお、成政は肥後国で一揆が勃発した責任を秀吉から追及され、天正16年(1588)閏5月に摂津国尼崎の法園寺(兵庫県尼崎市)で自害して果てた。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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