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医学的な見地から明らかになった、秀吉による鳥取城兵糧攻めの実像

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
鳥取城の球面石垣。(写真:イメージマート)

 最近、羽柴(豊臣)秀吉による鳥取城の兵糧攻めで落城した際、城内の兵が粥を食べて死んだのは、「リフィーディング症候群」を発症していた可能性が高いと報道された。詳細はこちらに譲るとして、鳥取城の兵糧攻めの全貌を取り上げることにしよう。

 天正5年(1577)、秀吉は織田信長の命によって、毛利氏を討つべく中国地方に出陣した。その3年後には播磨・但馬の制圧に成功し、天正9年(1581)に鳥取城に迫った。

 鳥取城を守備していたのは、石見吉川家の当主で吉川経安の子・経家である。秀吉は鳥取城の攻略に乗り出すと、得意の兵糧攻めで攻略しようとした。秀吉は鳥取城の西北に丸山・雁金の2つの付城を築くと、攻囲戦を展開したのである。

 秀吉は鳥取城に米が搬入されないように先手を打って、商人から通常よりも高い値段で米などを購入した。もともと鳥取城は兵糧の備蓄が少なかったので、秀吉による米の買い占めで苦境に陥った。

 また、鳥取城には多くの農民らが入城していたが、それは食糧が尽きるスピードを速めるため、秀吉が城内に追い込んだ作戦だったという。鳥取城内は将兵だけでなく、非戦闘員の食糧も必要になったので、余計に苦しくなった。

 鳥取城の食糧が少しずつ尽きていったことは、吉川経家の書状で随所に触れられている(『石見吉川家文書』)。食糧不足に陥った鳥取城内における阿鼻叫喚の生き地獄を描いたのは、『信長公記』などの史料である。

 同書によると、鳥取城内に立てこもった農民は、すぐ城外に逃がされたと書かれている。城に残った将兵は、3日か5日に一度の鐘の合図で城外に出て、木や草の葉、稲の根っこを採って口にしたという。

 時間の経過とともに食糧事情が悪化すると、城内は悲惨な状況に陥った。やがて城内は草の葉なども尽き、牛馬を食べていたが、餓死する人は絶えなかった。餓鬼のように痩せ衰えた男女は、柵際へ寄ってもだえ苦しみ、「ここから助けてくれ」と叫んだという(『信長公記』)。

 やがて、城内の人々は死にそうになった者のところに集まり、刃物を手にして関節を切り離し、肉を切り取ったという。(人肉の)身の中でも、とりわけ頭は味がよいらしいとみえて、首はあっちこっちで奪い取られていたと書かれている。

 同年10月25日、経家は秀吉に抗するのは不可能であることを悟り、城兵を助けることを条件に切腹した。落城後、城内の人々には粥が与えられた。少しずつ粥を食べた者は問題がなかったが、急にたくさん食べた者は亡くなったという(『豊鑑』)。

 後者が「リフィーディング症候群」といわれるもので、低栄養状態の者が急に栄養価の高いものを口にしたので、電解質異常や低血糖の状態になって、死に至ったという。ともあれ、こうした事実は、医学的な根拠により裏付けられつつある。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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