【戦国こぼれ話】爆死した松永久秀と運命をともにしたという茶器の平蜘蛛。いったいどんな茶器なのか
茶器の名器といわれ、織田信長も欲した平蜘蛛。最近では、岐阜県垂井町の新聞店がぬいぐるみにしたというからほほえましい。では、そもそも平蜘蛛とは、どういう茶器なのだろうか。
■平蜘蛛とは
そもそも平蜘蛛とは、体長約1cmの蜘蛛の一種である。その這いつくばったような姿から、転じて平身低頭して詫びることを意味するようになった。茶器の平蜘蛛も、その姿から名付けたものである。正式には、「古天明平蜘蛛」という。
平蜘蛛の形状は平釜に分類され、底が浅くなっている。胴部の丈が低く、口が広いのが特徴である。古代の中国では、炊飯に用いられていたといわれている。
平蜘蛛のほとんどは、素紋という地紋がない、あっさりしたデザインだった。比較的古い形状のもので、千利休の時代になると使われなくなった。それゆえ、かえって珍重されたのかもしれない。
この名器を所持していたのが、かの松永久秀である。
■松永久秀と茶器
松永久秀は三好長慶の家臣だったが、その死後は織田信長と対立の様相を呈していた。しかし、永禄11年(1568)に信長が足利義昭を推戴して上洛すると、ただちにその配下に収まった。
久秀は信長に従う際、茶の名器として知られる九十九髪茄子を献上し、臣従の証としたのである。九十九髪茄子とは付藻茄子とも呼ばれる、唐物の茶入だった。
もともと九十九髪茄子は足利義満が所持し、その後は山名是豊、朝倉宗滴(朝倉教景)らの手を経て、久秀が1000貫で購入したという。1000貫とは現在の貨幣価値に換算すると、約1億円だから、いかに高価だったかわかる。なお、九十九髪茄子は本能寺の変で焼け跡から発見され、豊臣秀吉の手に渡った。
しかし、信長は実に執念深かった。ことあるごとに、信長は久秀に平蜘蛛の供出を要望したが、それはすべて断られたといわれている。当時、名器といわれる茶器は、一国に値したといわれているので、久秀は断ったのだろう。
■討ち取られた久秀
天正5年(1577)8月、大坂本願寺を攻めていた久秀は、突如として子の久通とともに信貴山城(奈良県平群町)に立て籠もった。久秀の謀反に驚いた信長は、松井有閑を派遣して翻意を促したが、久秀の決心は固く、有閑に会おうともしなかった。
信長は久秀に対し、平蜘蛛を差し出せば助命すると伝えたという。しかし、久秀は「平蜘蛛の釜とわれらの首と2つは、信長公にお目にかけようとは思わぬ。粉々に打ち壊すことにする」と回答した。その後、信長は嫡男・信忠を総大将とし、明智光秀、筒井順慶を主力とした軍勢を派遣した。
同年10月、織田軍は信貴山城を包囲し、久秀は窮地に追い込まれた。結果、信貴山城は落城し、久秀・久通父子は自害したのである。その遺骸は、順慶によって手厚く葬られたという。
久秀・久通父子は切腹し、信貴山城に放火した(『兼見卿記』)。その後、首は信長のいる安土城(滋賀県近江八幡市)に送られた。この説がもっとも信用できるが、平蜘蛛の行方については書いていない。
■平蜘蛛は打ち壊されたのか
ところで、久秀の死後、いったい平蜘蛛はどうなってしまったのだろうか。
久秀は信貴山城の天守に火を掛けると、自らの手で平蜘蛛を打ち砕き、そのまま焼死したという(『大かうさまくんきのうち』)。久秀が自らの手で平蜘蛛を破壊したという説である。
一方で、久秀の首と平蜘蛛は、鉄砲の火薬で木っ端みじんに砕かれたという説もある(『川角太閤記』)。久秀は、平蜘蛛と自分の首を信長に見せてはいけないと厳命したという。のちにこの記述は、後世の史家によって「久秀が平蜘蛛とともに自爆した」と解釈された。
また、粉々に打ち砕かれた平蜘蛛の破片は、多羅尾光信が集めて修復したとの説もある(『松屋名物集』)。天正8年(1580)には、多羅尾綱知が平蜘蛛を使ったともいわれているが、久秀が所持したものと同じなのかは不明である。
ぬいぐるみになった平蜘蛛であるが、実はこのように不思議な由来を持っていたのである。