近代化とともに観光地化されていった、日本人と温泉の歴史
日本は温泉大国として知られており、多くの人が温泉を訪れています。
温泉の利用していたのは何も最近に始まったことではなく、太古の昔から人々は温泉を利用してきました。
そこで今回は、近代の人々が温泉をどう利用してきたのかについて紹介していきます。
昭和まで続いていた湯治文化
日本人の「あつ湯好き」については、いくつかの説が語られています。
蒸し風呂に慣れているからだとか、屋外での過酷な労働の結果だとか、あるいは「意地っ張り」な性格ゆえに耐え忍ぶためだというものもあります。
しかし、真の理由は衛生面にあるのかもしれません。
ともあれ、江戸時代から続くこの熱い風呂文化は、明治時代の東京で大いに発展し、銭湯の数は慶応年間の3倍にまで増加したと言われています。
明治時代には、風呂場の改良が進んだ。湯釜や湯槽が整備され、屋上に湯気抜きを設けたり、洗い場を広げたりする「改良風呂」が登場し、多くの人々に喜ばれました。
さらには、湯槽の縁を少し高くして、洗い場の汚水が混入しない工夫も施されたのです。
こうした銭湯は東京だけでなく、阪神地域でも人気を集め、大阪や神戸の公衆浴場は遊園地に娯楽を兼ね備えた施設として発展していきました。
日本人が温泉を特に愛好する民族であることは、明治期に来日した外国人たちの記録にも詳しいです。
彼らが特に驚いたのは、日本人が「恥を重んじる国民」でありながら、温泉では「混浴」が当たり前のように行われていたことです。
特に庶民の湯治では、気の合った者たちが布団や味噌を持ち寄り、1〜2週間の滞在を楽しむ習慣があり、歌ったり踊ったりして、湯治が一つの娯楽となっていました。
こうした「温泉湯治」の文化は、明治から大正、昭和30年代までも続いていました。
例えば、宮城県の鳴子温泉では、湯治にかかる費用は非常に安く、人力車や馬車、食事や布団の賃料まで含めても数銭で済んだのです。
当時の温泉旅行は、物見遊山の一環として楽しむことが多く、山旅としての人気も高まっていました。
しかし、一方で温泉は次第に西欧化され、観光地としての性質を強めていきます。特に箱根では、洋風の旅館が建てられ、電気鉄道の発展とともに温泉地は大きく変貌を遂げました。
遠方からの湯治客が増えるにつれ、歓楽を求める旅行者が集まり、「一泊二食付き宴会型」の団体旅行が流行するようになりました。
しかし、こうした商業化に対しては、温泉の本来の癒しの場としての価値を守るべきだという声も上がり、静かな抵抗運動が広がっています。
参考文献
茨城大学教養部紀要24号p. 295-314 「ゆ」と日本人に関する文化社会学的研究--聖・俗・遊のパースペクティブから