泡盛の物語:琉球に響く天竺酒の香り
泡盛の歴史は、遥かタイの蒸留酒「ラオロン」が琉球の地にもたらされた14世紀後半に始まります。
共に渡来した蒸留器やタイ米、甕といった道具たちが琉球の風土に馴染み、黒麹菌との出会いを経て、新たな蒸留酒が生まれました。
それが泡盛です。
異国から旅してきた技術と地元の気候の交わりが、この独特の酒を誕生させたのです。
その存在感は早くも明らかでした。
1460年、尚泰久王が朝鮮に贈った「天竺酒」には、「桄榔樹の漿を焼いて酒と成す」と記されており、これがヤシ酒に似た蒸留酒であったとされます。
また、1478年には朝鮮から漂着した民が琉球で目にした「南蛮酒」の味が、自国の焼酒に似ていると記しているのです。
南蛮酒の醸法は中国の露酒を基にしていたというから、泡盛にはアジアの広い文化の影が宿ります。
泡盛はその後も、琉球王国の外交の要として献上品となり、15世紀から19世紀にかけて中国や日本の権力者たちの手に渡りました。
徳川幕府にも薩摩藩を通じて贈られた記録が残るものの、これが泡盛の旅路の一端です。
しかし、泡盛の歴史は栄光だけではありません。
沖縄戦では酒造場が壊滅的な被害を受け、戦後には米も不足し、密造酒が出回る事態となりました。
そんな中で、咲元酒造の佐久本政良が焼け残った筵から黒麹の培養に成功し、泡盛復興の父と呼ばれる功績を残したのです。
この努力によって酒造りは息を吹き返し、米軍が放出したビール瓶やウィスキー瓶に泡盛が詰められ、販売されるようになりました。
現在でもこれらの瓶は泡盛の姿の一部です。
時代が進むにつれて嗜好が多様化し、泡盛の消費は減少傾向にあります。
1970年代には焼酎技術の取り入れや鑑定官の導入など技術的な進展もあったものの、2017年の出荷量はピーク時から減少しているのです。
それでも、泡盛はその独特の味と長い物語を通じ、今も人々に愛され続けています。
琉球の風土が育んだこの酒は、ただ飲むだけではなく、語るに値する存在なのです。