蒸留の歴史を語る夜:不確かな泡と命の水
まずは、遠い昔、まだ人々が星の動きを頼りに生きていた紀元前2000年ごろ、メソポタミアのバビロニア人たちが蒸留らしきことをしていた、という説があります。
だが、これには賛否両論があるとのこと。「やった!」と歓声を上げて祝杯をあげるには、どうも根拠が薄いのです。
もし本当に彼らが蒸留をしていたのならば、それはどんな味がしたのでしょう。
甘い夢のように、今も想像するしかありません。
時は移り、西暦1世紀、場所はアレクサンドリア。
古代ギリシャの知恵者たちが、化学的な蒸留を行っていたという記録があります。
しかし、これもアルコールではありませんでした。
「命の水」にはまだたどり着かない。歴史のカップは乾いたままです。
その後、8世紀から9世紀にかけて、中東でようやくアルコールの蒸留が行われたと言われています。だが、この頃の酒は純粋に医療目的でした。
おそらく薬棚に収められたそれは、今日のようにグラスに注がれるものではなく、治癒を願う祈りと共に飲まれたのでしょう。
なんとも気高い始まりです。
中世の霧の中から現れるのは、十字軍です。
彼らが持ち帰ったものの中には、アラブ人たちの蒸留技術も含まれていました。
12世紀初頭、ラテン語の記録に「aqua vitae」(命の水)が現れます。
この命の水がどんな味だったのかは記録に残されていないが、少なくとも人々の命を救ったであろうことは間違いありません。
あるいは救われたのは、精神の方だったかもしれないのです。
13世紀、イタリアの哲学者ラモン・リュイがワインからアルコールを蒸留したという記録が登場します。
これが現代の蒸留酒の祖先とされるのです。
この技術は修道院で大切に育てられ、疝痛や天然痘の治療に使われたといいます。
薬瓶から漏れるアルコールの香りが、修道士たちの祈りに混ざり合った光景を想像してみるのも一興です。
15世紀、蒸留はアイルランドとスコットランドへと渡ります。
当初、ここでもアルコールは薬として扱われました。
「命の水」は、やがてウィスキーへと名前を変え、冷たく湿った土地の人々を温めるものとなります。
アイルランドでは1405年のクリスマス、首長が「命の水」を暴飲して亡くなったという記録が残っているが、なんとも酒の歴史に相応しいエピソードではないでしょうか。
スコットランドでは、1494年に「修道士ジョン・コーに8ボルのモルトを与えてアクアヴィテを造らせた」との記録が残っています。
500本分のウィスキー。
もしタイムマシンがあるなら、その瓶の一つをこっそり拝借したいものです。
16世紀には王侯貴族の間でウィスキーが愛され、やがて修道院の外へと広まっていきます。
ヘンリー8世が修道院を解散すると、修道士たちは市井に出て、生活費を稼ぐためにウィスキーを造りました。
命の水は、いつしか人々の日常に染み込んでいったのです。
17世紀から18世紀にかけてのスコットランドは「密造の時代」と呼ばれます。
課税を逃れるため、夜陰に紛れて蒸留が行われました。
祭壇の下や棺の中に隠された樽。詩人なら、この光景をどう表現したでしょうか?
この密造時代には、ウィスキーは熟成という偶然の恩恵を受けます。
シェリー樽に長期間保存されたことで、現代の琥珀色の美酒へと変わるのです。
1823年、イギリス政府は新たな酒税法を可決し、密造が減少します。
初めて合法的に操業したのはグレンリベット蒸留所。蒸留技術はますます洗練され、アイルランドやスコットランドのみならず、アメリカ、カナダ、そしてインドへと広まっていきます。
こうして蒸留は時代と地域を超えて広がり、多くの物語を生み出しました。その技術は、科学であると同時に芸術でもあります。
そして、どんな酒も最初の一滴はただの水であり、最後の一滴はただの記憶です。
私たちはその間に漂う芳香を楽しみ、杯の中の歴史に酔います。さあ、次はどの一滴を物語にしましょうか?