女性アナウンサー藤原菜々花さんに起きた奇跡と、家族ら彼女を支える人達のお話
古舘伊知郎氏からもらった言葉
3月6日、早朝の美浦トレーニングセンター。ラジオNIKKEIの藤原菜々花アナウンサーは「木村哲也調教師からノッキングポイントとヒップホップソウルのコメントをもらわないといけないんです」と言った。「ただ、面識がありません」と続けるので「紹介しましょう」と返したのも束の間、タイミング良く向こうから木村調教師がこちらに歩いて来る姿が見えた。そこで、目の前に来るのを待ち「先生、彼女が……」と言うやいなや、調教師の方から「後で厩舎へ来てください」と、声をかけられた。
1997年7月、神奈川県で生まれた藤原菜々花さん。両親と父方の祖父母、それに弟の6人家族で育った。
「両親は共働きでしたけど、祖父母がいてくれたので淋しいと感じた事はありませんでした」
中学で放送部に入部。顧問はNHKでキャスターをやっていたという女性だった。
「その先生に憧れたのと、放送した声を褒めてもらえる機会があった事で、アナウンサーになりたいと思いました」
立教大学文学部に入学すると、古舘伊知郎氏が講師となる授業があった。
「私は羽生結弦選手の大ファンなのですが、彼が当時の歴代最高得点を記録した直後に、古舘さんのテレビ番組にゲスト出演されていました」
その時の質問に驚かされた。
「古舘さんが『平昌五輪までもつ?モチベーション大丈夫?』と聞かれたんです」
そんなストレートに聞く事はなかなか出来ないと思い『何故、聞けたのか?』を直接、尋ねた。
「すると『勿論、いきなりそういう質問をしてはダメです。その前に畑を耕して、しっかりした人間関係を築き、心を通わせてからでないと、聞けません』と答えられました」
いつか自分がアナウンサーになった時には、実践しようと誓った。
上手に出来ず焦った日々
2020年に大学を卒業すると、ラジオNIKKEIに入社。そこで競馬と出合った。
「内定をもらった段階で、先輩アナウンサーらと中山競馬場を1日体験する機会を設けていただきました。馬券は1度も当たらず、ビギナーズラックはありませんでしたが、楽しかったです」
入社時期が新型コロナウィルス騒動の真っ最中という事もあり、しばらく競馬場へは行けなかった。
「入社後、初めて行けたのは、コントレイルが制した日本ダービー(GⅠ)の日でした。先輩方の空気感が会社にいる時とまるで違うし、無観客でしたけど、ダービーの凄さが伝わりました。無敗のダービー馬が誕生した瞬間は、まだ競馬をよく分かっていない私でも、感動して鳥肌が立ったのを覚えています」
同年の秋にはパドックMCとして、解説者とやり取り。本格的な競馬中継デビューを果たした。
「翌21年の6月には番組全体のMCをやらせてもらえるようになりました。また、先輩と一緒にレース後の騎手のコメントを取るようにもなりました」
私と知り合ったのもそんな頃だったが、当時「空いている時間にレース実況の実践練習を繰り返しています」と語っていた。
「丸1日、練習だけという日もありました。レース中に全出走馬の名前を言わないといけないのですが、最初は戸惑っているうちに終わってしまいました」
1日も早く一人前になりたいと考えていたのに、上手に話せない日々が続き、気が急いた。
「話している姿が好きとか、声が好きとか言ってもらえてアナウンサーになった経緯があるのに、なかなか成長せず、思ったように話せない自分がもどかしかったです。正直、自信がなくなったし、焦りました」
土日が終わる度、肩を落とした。しかし、週が明け、反省しながら次の週末に備えると、幸か不幸かすぐにまた土日がやってきた。いやがおうでも実践練習を繰り返した。競馬場だけでなく、家に帰った後も練習を重ねた。すると、少しずつ紹介出来る頭数が増えた。そして……。
「気付いたら全頭言えるようになっていました」
ほろ苦い実況デビュー
そんな姿勢を、見ている人は見ていた。
入社して足掛け5年目を迎えた今年の年頭に、その日は突然やってきた。1月5日の金曜日、上司に呼ばれると、3日後のレース実況を言い渡された。
「ラジオのみの実況デビューでしたが、決まった時は鼓動が速くなるのを感じました」
更に約2カ月後の3月1日、再び上司に呼ばれた。
「2日後の3月3日、第3レースで『場内の実況をやってみよう』と言われました。場内実況デビューはまだ先だと思っていたので、その後はどこかでソワソワしながら過ごしていたと思います」
こうして、ひなまつりの日に、夢にまで見た場内実況デビューを果たした。しかし、それはほろ苦い結果となってしまったと唇を噛む。
「初めての場内実況を終えて、まずは申し訳ないと思いました。最後の直線でメジャーレーベルが追い込んできたのが分かっていたのに、馬名が出て来ませんでした。それで頭が真っ白になり、ちぐはぐなまま、騎手の名前も言えずに終わってしまいました。馬券を握りしめていたファンや、勝ち馬の関係者の皆様にも申し訳ないという気持ちで一杯になり、嬉しい気持ちはなくなりました」
奇跡の邂逅
悔しい思いで一杯になった彼女を救ってくれたのは、周囲の人達だった。
まずは顔も知らない多くの競馬ファンが、SNSを通して温かいメッセージを送ってくれた。
「今までいただいた事がないくらいの多く反響がありました。そのほとんどが温かいメッセージで、やっと気持ちをプラス方向へ持っていけるようになりました」
家族の姿や言葉も気持ちを切り替えてくれた。
「当日、競馬場に来てくれていた母から『家でもいつも頑張っているのを知っていたから、それが形になった瞬間に立ち会えて嬉しい』と言ってもらえました。また、今回は家で聞いていたという祖父母が『いつか現地で聞く事が夢になった』と言っているのを聞き、やって良かったという気持ちになりました」
あまり感情を表に出すタイプではないという祖父が満面の笑みで迎えてくれた時には「涙がこぼれそうになった」と言い、更にエピソードを続けた。
「祖父母は新聞に載った私の記事をまとめてくれて、それを入れた袋には祖母の字で『令和6年、3番メジャーレーベル』と書かれていました。馬名とか、分からないはずなのに、書いてくれたのだと思うと、胸が熱くなりました」
応援してくれる人はまだいた。
更に3日後の事、週末の有力馬のコメントを取るために美浦トレセンへ行くと、これまで言葉をかわした事のない騎手や調教師から「聴いていましたよ」とか「おめでとう」と声がかかった。そして、冒頭に記した奇跡が起きた。メジャーレーベルを管理する木村から、厩舎へ招待してもらえたのだ。
「お言葉に甘えて伺わせていただくと、メジャーレーベルと一緒に写真を撮らせてもらえました。競走馬に直に触れあえたのも初めてで、一生忘れられない思い出になりました」
そして、同時に「意識が変わった」と、次のように続けた。
「馬名を上手に言えなかったにもかかわらず、こんなに良くしていただき、責任をより感じ、邪魔をしない放送が出来るようにならないといけないと、改めて心に誓いました」
競馬場を離れれば「羽生結弦選手やももクロとか日向坂46らアイドルが好き」な、二十代半ばの普通の女の子。しかし「しっかり出来るようになったあかつきには牝馬のGⅠを実況させていただきたいです!」と力強く目標を語る姿は、1人のプロのアナウンサーのそれだった。彼女がこれからどんな道を切り拓いていくのか。注目しよう。
(文中一部敬称略、写真撮影=平松さとし)