給料は何の対価か
企業に勤める人は、自分の給料や賞与について、何の対価だと考えているのでしょうか。仕事の対価と考えている人は、常識人か。期待の対価と考えている人は、謙虚な人か。自分の価値の対価だと考えている人は、自信過剰か。労働という苦痛の対価だと考えている人は、企業人には向いていないのではないか。
仕事の対価か
雇用関係における給与等の支払いは、一体、何の対価なのか。弁護士、会計士、税理士、あるいはコンサルタント等の専門家に対する報酬の支払いは、依頼した仕事(役務、片仮名でいえばサービス)に対する対価ですから、それと同様に、給与等も仕事に対する対価だと考えるべきでしょうか。
しかしながら、純粋に仕事の対価といえるような報酬支払いは、特殊な作業の請負契約的なものを例外とするだけで、現実の一般的な雇用関係においては、考え得ないわけです。このことは、例えば、大学等の新規卒業者の給与等に明らかだと思われます。それは、どうみても、期待に対する対価だとしか思われません。
苦痛の対価か
では、労働という非効用に対する補償である、そういう労働観はあり得るでしょうか。雇う人と雇われる人、あるいは、使用者と被用者、更には、資本と労働、確かに、そのような二元論は、資本主義の原形も留めないほどに高度に修正された現代資本主義体制のもとでも、理念的にはあり得るでしょう。
しかし、今ここで問題にしようとしているような現代企業組織のもとでの処遇制度においては、雇う人と雇われる人との間に、尖鋭な対立的な関係はないし、それどころか明確な区別すらありません。形式上は使用者になっている人も、もとをただせば、一介の被用者であるのが普通です。現代企業においては、雇う人と雇われる人との両方を含んだ一つの組織内の人事制度が問題なのであり、更に、究極の論点に絞れば、その一つの組織から有能な経営職層(つまり、雇う側の人)が生まれてくる仕組みこそが問題であるわけです。
故に、給与等の意味に労働という苦痛の対価の要素がないわけではないことを認めつつも、ここでは、そのような視点から議論を展開することの実益は全くなかろうと考えます。
ただし、少し横道に逸れますが、企業統治論の見地からは、深く検討する必要がありそうです。なぜならば、経営職層は、経営機能的な問題として、かつて自らも属していた組織全体からは、意識的に適切な距離を置くことが必要だと思われますが、はたして、そのような意識次元の飛躍というか、悟りのような意識の断絶は可能なのかという問題があるからです。あるいは逆に、敢えて「日本的」という言葉を用いて、使用者意識と被用者意識の連続性のなかに、日本的経営の特質を見るべきか。
また、更に脱線するならば、企業にとって、被用者とは、同時に顧客であることも見逃せません。日本の高度経済成長のときもそうでしたし、一般に、どの国でも、経済成長における大衆消費の役割は極めて重要なものです。高度経済成長期の日本では、激しい労使対立のなかで、実は、急速な賃金の引き上げも行われてきたのであり、それが消費を刺激して、成長を支えてきたのです。安倍政権が雇用重視の姿勢に転じたのも、成長戦略における大衆消費の重要性に着目したからでしょう。
いずれにしても、企業統治論を拡張して、企業ステークホルダー論(適当な日本語はないのかな。利害関係者論では、ちょっと感じがでない)に展開したときには、単純な労使対立論などあり得ません。
成果の対価か
視点を変えますと、期待に対する対価だろうが、価値に対する対価だろうが、いずれにしても、最終的には何らかの成果に対する対価になるわけです。その成果とは、何らかの仕事の結果でしょうから、企業の処遇とは、成果に対する対価、あるいは成果につながる仕事に対する対価ということになるのではないか。
おそらくは、最も優れた説明は、処遇とは成果につながる仕事に対する対価である、これでしょう。他方、人事制度では、処遇制度と並んで登用(昇格)制度が重要ですが、人の登用、あるいは人の選抜においては、人の評価基準として、成果につながる行動様式の重要性がいわれます。
そうしますと、処遇とは、事前の期待の側面においては、成果につながる行動様式への対価であり、事後の結果においては、成果につながった仕事への対価ということになるのでしょう。なお、敢えて成果に対する対価という成果主義的表現を避けるのは、結果主義的な響きをさけるためです。人事制度とは、あくまでも、事前の取り決めであり、同時に事後的な調整なのであって、単なる結果の測定ではないからです。
「仕事の値付け」
ところで、仕事と成果の関係が事前にわかる場合も多いのです。その場合には、処遇とは、仕事の対価、あるいは、より明瞭に、成果の対価といってよいのではないか。そのような職務は、概ね、二つの極端に分類されるのだと思われます。
第一は、標準化され、故に単純化された作業です。このような仕事の類型は、現在では、非常に適用範囲を拡大させているようです。肉体的作業においては、高度な機械化が、知的作業においても、高度な情報処理技術の導入が、一連の業務全体を単純化された小さな仕事に分解させることを可能にし、その小さく明瞭に定義された仕事に人を配することができるようになっています。
こうなりますと、人への処遇は、仕事への対価として規定できますし、また、その仕事については、成果が事前に高い精度で予測されることにもなりますから、処遇も限りなく成果に対する対価へ接近していくことになります。これは、企業にとって、経営の効率性を高めるうえで、大変に便利なことです。
企業の処遇制度における難問が報酬と成果との間の事後的な調整であることを考えると、このような仕事の明確な定義に基づく「仕事の値付け」は、人事の問題の相当に大きな部分を、人事の圏外へ放逐した感があります。実際、このような職種においては、処遇制度論が不要になる前提として、正規雇用自体も揺らいでいるわけです。
第二は、専門的な職務として、客観的な仕事の成果の評価が成り立つ領域です。どの企業にもある職種として、法務や会計などはわかりやすい例ですし、企業固有の業務についても、研究開発、製造、営業、情報処理など、どの分野においても、長年の経験と知識の蓄積が要求される分野があります。
こういう職務については、現在では、多くの企業で、専門職的な職制を作り、専門性の高さ、職務の難易度、類似職務の業界内での平均的処遇などに基づく処遇制度を用意しています。ここでも、「仕事の値付け」が行われているのです、ただし、企業にとっては人事戦略的に重要な人材ですから、さすがに、ここでは非正規雇用化ということは起き得ないでしょう。
費用人材
私は、そのような明確に定義された仕事、価格が付された仕事に従事する人材を、費用人材と名付けています。
人材が、人財として、企業にとって資産価値をもつのは、人財には未知数の可能性があるから、即ち、人の無限の成長に伴う無限の価値創出の可能性があるからで、明確に定義された仕事に従事する人材には、そのような意味での資産性はない。故に、費用人材です。その人材に対する処遇は、資産性がないという意味で、費用になるはずです。
念のためですが、資産性のないことは、価値のないことではない。企業会計において、支出が資産性をもつかどうかは、その支出に見合う価値の実現についての時間軸上の判断の問題にすぎません。即時に効果があるなら、費用です。時間がかかるなら、資産です。ただ、それだけのことです。価値があるかどうかは、関係ない。
債務人材と資本人材
逆にいえば、成果を生むまでに時間のかかる人材は、資産人材ということです。その資産人材を、これも会計的用語を用いて、債務人材と資本人材に分けています。
企業からの成果期待のもとに働くのが、債務人材です。故に、当然ですが、債務人材への処遇は、期待への処遇です。期待への処遇とは、将来成果の対価を先に払うことですかから、受ける側からすれば、それは債務です。ですから、債務人材です。
企業からの期待とは、企業主体に人材を使うことを前提にしています。その期待のもとで働く債務人材には、企業を変革させることはできないのではないのか。一方、企業は変革し続けなければ、成長し得ない。企業のなかに、企業変革の担い手がいなくてはいけない。それが資本人材です。
なぜ、資本人材か。それは、自発的な創意工夫が要求される人材だからです。資本は、無限に、自由自在に、何物にも転化できるからこそ、資本です。そのような自己増殖力と自己形成力がなければ、資本ではない。では、資本人材の処遇は何の対価か。それは、人材価値の対価というほかない。
また念のためですが、債務人材と資本人材に、価値において本質的な差があるわけではありません。働き方の問題にすぎません。あるいは、企業の成長戦略の次元における人材登用のあり方の問題にすぎません。
大雑把にいえば、資本人材は成長の芽を生み、債務人材が芽を育むのです。そして、費用人材は、債務人材を支援し、資本人材の活動のための環境を構成するのです。そうした機能の差が、処遇の意味を規定し、何の対価であるかを規定するわけです。