多摩美術大学の佐野研二郎葬式ごっこ問題を考える
それは昨日、11月6日日曜日のことだった。私は日曜日の新聞を、毎週楽しみにしている人材である。立ち止まって振り返り、先を見通す内容の記事が多くて好きなのだが、もっとも楽しみにしているのは書評コーナーである。昨日の朝日新聞では評論家の荻上チキ氏が、読者からの相談を受けつつ本を紹介するコーナーに登場していた。クラスの人がいじめを受けている。どうすればいいかという趣旨の中学生からの相談だった。いじめに関するNPOの代表をしているだけあり、回答は具体的だった。いじめを「なくす」ことはできないかもしれないが「へらす」「止める」「発展させない」ことはできる、「止める」方法も自ら「傍観者から仲裁者になること」だけではないと説く。
久々に「いじめ」という言葉を認識して考えていた午後に、衝撃的な画像をTwitterで発見した。佐野研二郎氏の葬式が、多摩美術大学で行われているというのだ。当初は投稿していたのは一人だけだったが、他にも投稿が確認された(なお一部はすでに消されているが、ハフィントン・ポストの記事などで確認できる)。学園祭運営スタッフだと思われる人の姿も見える。公式のイベントだったかどうかも分からない。スタッフはイベントに同行しているのではなく、注意しているのかもしれない。ただ、見ていて、大変に不愉快になり、怒りの感情が湧いてきたのもまた事実だ。「葬式ごっこ」事件や、ドラマのイジメのシーンでよくある机の上に菊の花を載せる行為などを思いだしてしまった。
詳しい趣旨は分からない。佐野研二郎氏は現在、同大学の教授であり、彼が公認したものなのかもしれない。「生前葬」に関しても、本人や親しい仲間が主催でやるならよくわかる。彼をめぐっては昨年、大変に騒がしかったわけだが。今までの彼を一度、封印して蘇らせるという行為だったのかもしれない。ブラックユーモアや皮肉だと言いたいのかもしれない。あるいは、そんなものではなくてより直接的に、OBとして、現役教授として大学に迷惑をかけた佐野氏に対する制裁なのかもしれない。主催者は趣旨説明をするべきだろう。
本人が公認していない場合は、単なる悪趣味であり「いじめ」である。こんなものは、アートともパフォーマンスとも呼びたくない。佐野研二郎に対してなら何を言ってもいいのか。そんなことを昨日の15時半頃にツイートしたら、7日の8時現在で700RTされていた。大反響とも言えるのだが、そうなると絡んでくる人も沢山いるわけで。「偽善者ぶるな」「こうやって拡散しているあなたもいじめている」「だって美大生だろ」などの意見も頂いた。まあ、多くは意見なんてものではなく、単なる誹謗中傷なのだけど。
とはいえ、少しだけこの手の意見に耳を傾けるとすると、「(具体的な説明は主催者からはないものの)佐野氏ならいくら叩いてもいい」という、この生前葬の主催者に対して、批判した人たちも「みんなが悪いと言っているから叩いてもいい」という論理で叩いているとしたならば、これもまた集団の病理ではある。何かこう荒んでいるなと思った次第だ。もっとも、ここで誰も叩かないとしたならば、これもまた社会が歪んでいると感じるのだけれども。
大学や大学生はあり方が問われ続けている。今後、5年、10年で枠組みは大きく変わっていくだろう。大学は何を学ぶところか。すでに就職予備校化していると揶揄する声はあるし、一方で、大学では教養などは教えず、手に職をつける場所になるべきだという論もあるし、世の中は大学の機能を分化する方向に動きつつもある。しかし、それでも教養がなければ人は善悪の判断をすることも他者を理解することもできない。ポピュリズムが台頭する世においてはますますそうである。
学園祭だから、美大だから、OBであり現役教員をいじっているだけだからで終わらせていい問題だろうか。この問題自体に、ネット社会の「◯◯だからイジメていい」という構造と「教養、倫理観の欠如」を感じた次第である。わかりやすいネット事件簿のようで、これもまた現代の縮図だ。