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幸せになりたければ、今すぐ「自己責任グセ」を捨てなさい!

常見陽平千葉商科大学国際教養学部准教授/働き方評論家/社会格闘家
自己責任って無責任なのですよね 実際は社会責任、会社責任です(写真:イメージマート)

就職氷河期前期世代が50代に突入し始めている。アラフィフはどう生きるべきか。この度、50代の生き方指南書『50代上等!理不尽なことは週刊少年ジャンプに学んだ』(平凡社新書)を上梓した。この本で紹介した、ハッピーアラフィフ究極奥義の一つ「自己責任グセを捨てろ!」について、その要点をお伝えしよう。

仕事柄、同世代から日々、働き方に関する悩みを打ち明けられる。会社に勤めていると、50代になって肩叩きにあうという体験もあるわけで、役職も年収も下がる可能性がある悩みがある一方、逆に出世したが故に苦しくなることもある。

ところで、なぜ、アラフィフは生きづらいのだろうか。

その理由の一つが「自己責任グセ」である。

この本の取材で、同世代と会うたびに、この問題が同時多発的に話題となった。将来の不安、自分を取り巻く環境の先行き不透明感など、必ずしも自分に非がないことまで、自分のせいだと思ってしまう。職場や仕事の問題、家族の問題も、何もかも自己責任だと思い込んでしまい、うまくこなせない自分を責めてしまうのである。これを私は「自己責任グセ」と名付けた。

「自己責任」とは極めてロスジェネ的、アラフィフ的な言葉である。格差や貧困など、苦しい環境におかれている人に対して、「それは自己責任だ」と批判、揶揄する場面などで使われるこの言葉だが、実は流行したきっかけはこのような文脈ではなかった。この言葉が広がったのは2000年代前半で、特に2004年4月、戦闘が続くイラクで発生した武装グループによる日本人人質事件、ジャーナリストの安田純平氏らが拉致され、捕虜になった事件がきっかけとなり、頻繁に使われるようになった。

政府の勧告を無視してイラクに向かったのだから、自業自得だという議論が盛り上がったことは皆さんも記憶にあるだろう。彼らが果たそうとしたイラクの子供たちへの支援や真実の報道という目的は無視され、政府に迷惑をかけたことだけがクローズアップされたのである。「自己責任」という言葉は「2004年ユーキャン新語・流行語大賞」でトップテン入りを果たした。

この「自己責任」論は、小泉・竹中改革などの新自由主義的な政策、成果主義の導入など人材マネジメントの変化、さらには起業・上場で巨万の富を得たIT長者の登場とメディアでの露出などと相まって広がった。常に競争にさらされ、もしうまくいかなかったら自分が悪いということになってしまうのである。ちなみに、この言葉を当時使った政治家の一人が、当時初めて閣僚になったばかりだった現東京都知事の小池百合子氏である。

「自己責任」論とは、簡単に言うと「お前が悪い論」である。収入が増えないこと、勤務先の経営が傾くこと、非正規雇用で働くことなどすべてが「お前が悪いからだよね」ということで片付けられてしまう。自然災害に遭遇した場合でも、「地震の多いエリアに住んでいるお前が悪い」「津波の被害の確率が高いエリアに住んでいるから自己責任」と斬り捨てられることすらある。なんとも酷い話である。人間としての優しさ、労り、他者への想像力や配慮というものがこれっぽっちも見られない。ちなみに、私の過去の勤務先であるリクルートでは「雨が降っているのはお前のせい」という言葉が当時、真顔で語られていた。なんとまあ、理不尽なことであろう。

失われた時代と言われるほど、90年代前半から2010年代にかけて日本経済は悪化していった。環境が悪化していることについては、私たちではどうすることもできない。しかし、そこで50代の私たちは勤務先から厳しい目標を押し付けられ、それをクリアできなければ自己責任と切り捨てられる。このようなことを繰り返してきたため、50代には自然と「自己責任グセ」がついてしまったのである。

もっとも、「自己責任」という言葉の使い方が適切なのか、本当に「自己責任」なのかは疑ってかからなくてはならない。「自己責任」という言葉は本来、「リスク」を取って行動した者が自ら「結果責任」を取ることを指す。しかし、この言葉が使われる場面では単に「責任転嫁」のために使われている例も散見される。

「その選択をしたのは、あなた自身だ。やはり自己責任だ」という意見もあるだろう。ただ、少しだけ冷静になりたい。その「選択肢」は本当に自ら選んだものなのだろうか。「消去法」で選ばざるを得ない場合があるわけである。

たとえば、格差の象徴とされる非正規雇用だが、就職氷河期や、人材マネジメントの見直しにより正社員の求人が明らかに少ない場合、育児・介護との両立のためなど、選ばざるを得ない場合もあるのである。よくある「正社員の求人があるのに、応募せずに非正規雇用を選ぶのは自己責任ではないか」という論があるが、その求人内容が過酷な仕事だとわかっている場合もあるのである。正社員という現在のシステムが硬直的、排他的であるがゆえに、参入できず、必然的に周縁化する場合もあるわけである。なお、これは雇用形態に限らない。過酷な働き方にしろ、さらには不正行為にしろ、自ら選択したようで、勤務先からそう追い込まれることがあるのである。

これは「自己責任」ではなく、「社会責任」とも考えられないだろうか。本来、社会が支えなくてはならないことについて、行政の対応が追いつかない状態の方が問題ではないだろうか。100年に1度の変化が毎年起こる時代である。社会の変化に行政がついていけないのもしょうがないかもしれないが、何もかも「自己責任」だと片付けてしまうのはおかしくないだろうか。

ただ、この「自己責任」に染まりきっていることこそ、アラフィフの不幸の源でもある。この「自己責任グセ」が抜けないゆえに、アラフィフの私たちは自分で自分を責めてしまうのである。自責と他責という考えがあり、自責の念が薄い人は無責任、いい加減だと評価されがちである。ただ、これは本当に自分のせいなのか、自分が悪いのか、立ち止まって考えたい。もしかしたら、それはあなたではなく、会社や社会が解決すべきことかもしれないのである。

「自己責任グセ」を今すぐやめよう。それが、幸せの扉を開く鉄則である。

千葉商科大学国際教養学部准教授/働き方評論家/社会格闘家

1974年生まれ。身長175センチ、体重85キロ。札幌市出身。一橋大学商学部卒。同大学大学院社会学研究科修士課程修了。 リクルート、バンダイ、コンサルティング会社、フリーランス活動を経て2015年4月より千葉商科大学国際教養学部専任講師。2020年4月より准教授。長時間の残業、休日出勤、接待、宴会芸、異動、出向、転勤、過労・メンヘルなど真性「社畜」経験の持ち主。「働き方」をテーマに執筆、研究に没頭中。著書に『なぜ、残業はなくならないのか』(祥伝社)『僕たちはガンダムのジムである』(日本経済新聞出版社)『「就活」と日本社会』(NHK出版)『「意識高い系」という病』(ベストセラーズ)など。

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