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松田直樹、サッカーに人生を懸けた男の最後

小宮良之スポーツライター・小説家
在りし日の松田直樹(写真:アフロスポーツ)

 2011年8月4日、松田直樹がこの世を去ってから、命日には必ず、悼む原稿を書いてきた。今年で13年目になる。

「マツの戦いを最後まで描くよ」

 生前の彼に、筆者はそう約束していたからだ。

 しかし、彼の戦いはすでに終わっている。つまり、その約束は永遠に終わらない。呪いのようになってしまう前に、どこかで自分が区切りをつけるしかないのだ。

 そこで今回で幕を下ろすことにしたい。

 最後は、サッカーに人生を懸けた男の夏の日の一瞬を切り取った――。

夏の暑い日

 夏の暑い日だった。練習後、みなとみらいにある商業施設に入っているカフェバー。松田は、好物のフルーツジュースを一気に飲み干した。練習後、強い渇きがあったのか。むしろ、自分の中の飢えを探すようにこう言った。

「どうしようもなく不安になることがあるよ。俺にはサッカーしかないと思って生きてきたけど、最近は自信を失いそうになる。そんな自分をしょっちゅう殴っている感じ」

 松田はそう言って、ジュースをお代わりをした。彼は自分の中に答えを探し求めるようだった。

 選手として、一通りをやり遂げていた。日韓ワールドカップの熱狂を経験し、燃え尽き症候群になったが、Jリーグでも連覇を達成。現代だったら海を越えていたはずだが、当時はそんな時代ではない。彼は横浜F・マリノスに殉じる道を選んだ。

 しかしいくら「強敵」を求めても、そこにはいないわけではないが、乏しかった。そのうち、苛烈な戦いのツケがくる。。4度もメスを入れた膝のケガは深刻で、もはや思い通りのプレーはできなかった。負荷を懸ければ悲鳴を上げる。打つ手がなかった。

「今の自分は情けないし、許せない」

 そう吐き捨てた彼は、相変わらずピッチで命を懸けてプレーしていた。

 そこで筆者は気持ちを慰めるように、あるいは奮い立たせるために、スペインでサッカーに人生を投じたルイス・アラゴネスの言葉を伝えた。

「現役時代は、サッカーができなくなるなんて考えられなかった。それだけの覚悟でやっていた。ピッチで死にたいと思ったこともあるぞ。監督になってからはベンチで死にたいと思う。もしそんなことになれば、関係者や家族や友人には迷惑をかけるだろうが…」

 それに対し、松田は「わかります!! マジで、カッコいい」と共感したようで、しきりに頷いていたから言った。

「俺もさ、サッカーができなくなる、なんて考えると、どうしようもない気持ちになるよ。そんなことを考える自分を殴ってやりたいけど、どうしようもない。ふと、本気で窓から飛び降りたくなることがある」

 そこは高層階のカフェバーだった。彼の表情は真剣で、冗談で流すこともできず、しばし沈黙の時間が流れた。

マジでサッカーが好きなんすよ

 当時、松田は離婚した直後だった。彼はその事実をほんの一部の友人にしか伝えておらず、その時点でF・マリノスの首脳陣にも伝えていない。同情されるのはまっぴらだった。しかし、3人の子供と会えない心痛はどうしようもない。親権を争うことで子供たちが不幸になることを恐れたわけだが、心は軋んでいた。

 にもかかわらず、「コミヤさんが書きたいと思ったらさ、離婚のことも書いていいからさ。信じているから」と男気を見せた。さすがに、書くことはできなかった。書けるはずもない。

 そしてシーズン終了直前、クラブから予期せぬ戦力外通告を受けた――。

 その人生で濃縮されたものが、F・マリノスの選手としてのラストマッチ後にゴール裏で発した言葉の背景だった。

「俺、マジでサッカー好きなんすよ。マジで、もっとサッカーやりたいっす。ホント、サッカーって最高だし…サッカーを知らない人もいるかもしれないけど、サッカーって最高なところ見せたいので、これからも続けさせてください」

 伝説的な風景である。サッカーを愛する人間の感情をひとつにまとめたような叫びに似ていた。純粋だった彼が言うと、たちまち大勢の人々の気持ちに伝わった。

 その後、JFLの松本山雅に移籍した松田は、最後の瞬間まで「サッカー選手」だった。練習中に意識を失い、病院に搬送されたが急逝した。決して美談ではない。しかし、彼の生き方そのものだった。

「もっとプレーする姿を見たかった。監督になったマツの姿も」

 そう心から惜しむ一方、駆け抜けた人生に嫉妬も覚える。

 彼は最後の最後まで、松田直樹だった。

松田との口論

 命日を悼む原稿をやめることにした理由はもう一つ、彼と約束していたからだ。

 かつて、筆者は松田と口論になったことがある。客観的に見れば、どうでもいいことだったが、二人にとっては生き方にかかわるものだった。

「自分はクラブや選手のことを、毎日のように見てもらえるのがいいと思う」

 松田が言ったが、筆者は反論した。

「いや、俺は世界を見ている。例えばメッシやカシージャスのインタビューをして、世界中を回って人脈を広げ、その風景を伝えながら、インタビューで話を引き出す」

「でも、いちいち現場にいるって大事じゃん」

 彼は食い下がった。

「いくら現場にいても、見えない奴は何も見えない。世界を広げないと、どんどん世界が狭い記者ばかりになる」

 筆者が畳みかけると、松田は不機嫌そうだったのが、どこか納得したようになった。

「たしかにね。違う景色を見られるから、こうして話していて楽しいんだし」

「自分は”書くこと”に芯がある。人を風景を徹底的に描くことで、ジャンルも超える。その覚悟がある」

 筆者が言うと、松田は楽しそうな表情になった。彼は本気でぶつかってくる人間だけを好んだ。

パリ五輪の熱狂

 筆者は約束を守った。

 2018年には小説「ラストシュート」(角川文庫)を刊行した。ノンフィクションから、目標にしていたフィクションの世界に入った。それは向こう岸にたどり着いたに等しい。そして違うスポーツであるフィギュアスケートで、高橋大輔のノンフィクションが話題になった。おかげでフィギュアも自分の”戦場”になり、2020年には小説「氷上のフェニックス」も刊行した。

 さらにパリ五輪取材が決まり、今はその熱狂の中でバレーボールなどの動向を日々伝えている。夏冬のオリンピック、ワールドカップ、サッカー欧州選手権、チャンピオンズリーグ決勝など主要な国際スポーツイベントをすべて取材したフリーランスの記者は、おそらく日本人にいない。

〈物書きのプロとして、松田に誇れるだけの戦いができた〉

 そう思ったのである。さらに、領域を展開する覚悟もある。

 松田のように生死を懸けて戦ってきた者の熱を汲み取り、書き記すことで、自分は力を与えられてきた。書くことが芯だった。それは裏切っていない。

「コミヤさんが書いたもの、100%、信頼してるからさ。広報チェックとか、マジでうぜえから」

 そう明るく言う彼の表情は、今も消えずに残っている。出会えたことに感謝しかない。彼がいたことで、物書きとしての自分がどれほど勇気づけられたか。

 マツ、描かせてくれて、ありがとう。心から冥福を祈る。頼むから、化けて出るなよ。

スポーツライター・小説家

1972年、横浜生まれ。大学卒業後にスペインのバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。競技者と心を通わすインタビューに定評がある。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)『アンチ・ドロップアウト』(集英社)。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。他にTBS『情熱大陸』テレビ東京『フットブレイン』TOKYO FM『Athelete Beat』『クロノス』NHK『スポーツ大陸』『サンデースポーツ』で特集企画、出演。「JFA100周年感謝表彰」を受賞。

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