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連休明けに、やる気が出ない人へ【伊藤羊一倉重公太朗】第1回

倉重公太朗弁護士(KKM法律事務所代表)

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今回のゲストは、株式会社ウェイウェイ代表の伊藤羊一さんです。現在Zアカデミア学長として、また武蔵野大学アントレプレナーシップ学部の学部長として、次世代リーダーの育成に力を入れています。代表作『1分で話せ』は56万部を超えるベストセラーです。東京大学経済学部卒業後、1990年に日本興業銀行に入行するという輝かしい経歴をお持ちの伊藤さんですが、実は高校1年生のころからモチベーションを失っており、仕事にもなじめなかったと言います。そんな伊藤さんが使命に目覚めて、変わっていった経緯について伺います。

<ポイント>

・やる気のない「クラゲ」状態で漂っていた日々

・出社できないほどつらかったときから、立ち直れた理由

・リーダーシップの前に、自分自身をリードする

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■メンタル不調から立ち直るまで

倉重:きょうは武蔵野大学アントレプレナーシップ学部長の伊藤羊一さんに来ていただいております。よろしくお願いします。大変恐縮ですが、自己紹介をいただけますか。

伊藤:伊藤羊一と申します。現在54歳です。わたしの名前は羊一ですが、これは羊年の長男ということです。仕事は大きく分けて3つです。

ヤフー、LINE、ZOZO、アスクル、一休、PayPayなどが集まったZホールディングス株式会社の企業内大学、「Zアカデミア」の学長が1つ。

2つ目は、武蔵野大学のアントレプレナーシップ学部の学部長をしています。アントレプレナーシップ学部があるのは、日本ではここだけです。

倉重:あまり聞いたことがないですね。

伊藤:2021年4月に立ち上げて一期生を受け入れて、ちょうどもうすぐ1年がたつというところです。

 3つ目は自分の会社、ウェイウェイがあります。本を書いたり講演をしたり、グロービスの先生をしているのは、全部ウェイウェイで受けています。この3つの仕事を主にしている人間です。

倉重:ありがとうございます。今は超有名人でいろいろな講演に引っ張りだこで、著書もたくさんありますが、もともとは銀行員なのですよね。

伊藤:自分の人生は人から見ると保守本流みたいなところにいました。

倉重:東大から銀行ですからエリート街道まっしぐらです。

伊藤:中学、高校も麻布で、東大を出て興銀に就職するという絵に描いたような“エリート街道”を歩いていたのですが、その保守本流の世界になじめなかったのです。興銀で仕事をする前からやる気もありませんでした。興銀での仕事は全然うまくできなくて、会社に入ってから新人研修を受けて半年で駄目リストに入った160人中4人の1人だったのです。

「通信教育を8科目やりなさい」と言われて1科目しか終わらず、不良社員でした。やる気がないまま3年ぐらい過ごして26歳のころに会社に行けなくなったのです。

 それまでも仕事が全然できずに、夜飲みに行って帰ってきて寝ると、あしたになるのが怖くて、ゲームで寝落ちしないと眠れない日々でした。

倉重:本に「ドラクエをやっていた」と書いてありましたね。

伊藤:そうです。寝落ちしないと眠れない状態だったのですが、26歳のころに急に玄関から出られなくなり、しばらく仕事を休みました。

倉重:完全にメンタル不調ですね。

伊藤:ただ、そのころはクリニックで診てもらうという発想もないわけです。「これはさぼりたい病だな」という感じで、病院にも行くに行けませんでした。このまま休んでいるとクビになると思いまして、ある日調子が良さそうな日に背広を着て家を出ようとしましたら玄関に嘔吐してしまいまして、これはまずいと思ったのです。「きょう休んだらクビになる」と思って10分ほど休んで行きました。

仕事にはならないのですが翌日もひとまず会社に行くことはできました。翌日も玄関を出ようとすると嘔吐してしまったのです。これは玄関出たくない病だと思いましたので、翌日から風呂桶を用意して、嘔吐して10分寝てから出社するようにしました。翌日から10分早く起きるようにしたら、普通どおり仕事に行けるようになったのです。

倉重:嘔吐する前提の生活設計をしていたわけですね。

伊藤:26歳のころはそんな感じでしたので、会社に行ってもクラゲみたいな状態でふにゃふにゃ浮遊しているだけでした。

 当時バブルが崩壊した後でしたが、97年ぐらいまで日本のGDPは伸び続けていたので、世の中はまだほのぼのしていたのです。今でしたら本当に無理だったと思いますが、そのころは「誰でもできる仕事をしていろ」という感じでした。

倉重:今から振り返ると入社3、4年でどうしてそのような状態になってしまったのでしょうか?

伊藤:実は元々、生きるモチベーションが高校1年生ぐらいからなくなっていたのです。浪人中は大学受験をしなければいけないと思いまして、やる気モリモリで勉強しまくっていたのですが、大学に入ったらまたやる気がなくなってしまいました。結局社会とうまくコミュニケーションがとれなかったのです。例えばサークルに入ってみんなで仲良くすることができませんでした。

倉重:学生時代は何をしていたのですか。

伊藤:ひたすらバイト、バンド、デートという感じでした。バンドも真面目にやればいいのですが現実逃避でしていたのです。なぜそうなったのかと言いますと、高校1年生のときにテニス部をクビになりまして。地元のテニスクラブでは毎日テニスをしているのですが、学校の部活は人数が多すぎて練習ができなかったので、出なかったらクビになってしまったのです。クビになったことで急に人生やる気がなくなって、それを10年間引きずっていました。

倉重:テニス部を追い出されたことで。

伊藤:高校でクラゲが始まりまして大学もクラゲでした。わたしが就職活動をしたのは1989年なので、日経平均が3万8,900円ぐらいをつけていたタイミングです。あまり思い入れもないまま銀行に入って、そのままずっと暮らしていました。きれいにやる気を失っていたというところがあります。

倉重:銀行には14年お勤めでしたが、復活のきっかけは何だったのでしょうか。

伊藤:バブル崩壊後、マンションディベロッパーの会社が「ぼくらは痛みが少なかったし、日本で一番早く復活する。融資の案件を持ってくるから伊藤君にお願したい」と言われたのです。みんなに言っているということは当時も想像がつきましたが、頼ってもらえるのはうれしかったですし、向こうも必死なので会社のことをすごく一生懸命説明してくれました。

倉重:なかなか借りられない時代ですから。

伊藤:バブル崩壊のあとしばらくは「不動産」と言っただけで回収という感じでした。「この案件やってみたいな」と思ったのが復活するきっかけになったのです。

倉重:大型案件を持って来たわけですね。

伊藤:クラゲでしたが「これはやってみたい」と思ったらみんなが助けてくれました。それが26歳ぐらいです。

倉重:初めてちゃんと仕事をしたということですね。

伊藤:そのときに仕事が楽しいと思いました。楽しいというより、「そんなに怖くないな」と感じたのです。

倉重:みんな意外と優しく教えてくれるし。

伊藤:「じゃあ頑張ろう」と思ったのです。その翌年にビルを見に行ったら、マンションはできているし人が出入りしています。言われるがままやっていただけでしたが、「この人たちの幸せに少しは貢献したのかもしれない」と思った瞬間に電流が走りました。仕事に目覚めたのが27歳のころです。

倉重:自分が融資したからですね。

伊藤:そういう意味では3、4年仕事をしていなかったので、世の中と関われているのがうれしかったのです。銀行がヤバい状況になって、その後どんどんひどい状態になっていったのですが、働ける居場所や役割があるというだけで本当にうれしかったので、辞めるという選択肢はありませんでした。

倉重:そのときは、ほめてもらうのがうれしかったのですね。

伊藤:誰かの期待に応えていると言うと聞こえはいいのですが、結局言われるがままに行動してほめられていたという感じでした。

倉重:それは自分の人生を生きていませんね。

伊藤:本当にそのような状態です。14年ほどいましたが辞めるという発想はありませんでした。

■転職したきっかけ

倉重:それから文房具・オフィス家具のプラスに転職したのはどういうきっかけだったのですか?

伊藤:たまたま縁がありまして。今は会長ですが、当時社長でいらした今泉嘉久さんとお会いして、意気投合して仲良くなったのです。「伊藤君、食事に行こう」と誘われていろいろ話しているうちに、「おれは銀行員をしているけれども前線に出てみたい」と何となく思いました。

 よく考えてみると銀行は好きでしたし、自分を目覚めさせてくれましたが、プラスと出会って「みんな楽しそうにしているな」と感じたのです。

そのころはプラスグループ内にアスクルもありましたし、雑誌などでUnited States of Plusと言っていましたので、「自主独立しているなんてかっこいい」と思っていました。

 そのころ、第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行の3行が事業統合するという話が出てきたのです。それまで興銀のために頑張ってきたけれども、自分のベースキャンプである興銀がなくなるのなら、もっとニュートラルに考えていいのではないかと思ったのです。

倉重:もういいかなと思ったのですね。

伊藤:ほかの人が思う日本興業銀行に対するイメージよりも、「自分が働けるようになった場所」というベースキャンプとしての思い入れが大きかったのですが、「なくなるならそこまで恩義を感じる必要もないな」と思いました。

倉重:それで銀行とは全然違う社風の会社に行ったという感じですか。

伊藤:興銀もわりと自由な感じでした。銀行は金というロジを提供します。それはそれで潤滑油として大事なのですが、もっと前線に踏み込んで行くようなイメージも持っていました。興銀は最後の最後まで脇が甘くて、「日本はこうあるべきだ」とディスカッションして天下国家を論じる銀行だったのです。その前に自分たちをどうにかしろよという話ですが、非常にほのぼのしているところがありました。つまり足元の収益がどうこうよりも、「日本を良くしていきたい」と考えていたのです。

プラスも似た感じで、お客様の成長を真正面から考えている会社だったので、案外似ていた、というのが正直な感想です。

■東日本大震災のときにふるったリーダーシップ

倉重:本にも書いてありましたが、プラスでのリーダーシップのお話がとても良かったので、そのお話をしていただけますか。

伊藤:プラスに転職したのが36歳のときです。

最初は物流の仕事から入ったのですが、もともと銀行にいたので、物が動いていくというトランザクションの感覚がまったく分かりません。一体何をどうしたら仕事になるのかという感覚が分からないので、最初はとても苦労しました。少しずつ自分で考えたり勉強したりしていき、何とか物流が分ってきました。

 そのころグロービスというビジネススクールに行き始めて、ちゃんとものを考えるということを学んだのです。40歳近辺のおじさんになりつつあるのにようやく考えることが分かってきました。

最初はダメダメだったのですが、プラスに行って物流を4年間やったことでだいぶ理解が進み、その後マーケティングをして営業や事業の統合などの仕事を3年ぐらい担当しました。

 やるべきことをちゃんとやれるようになってきたので、銀行よりは指示されることもなくなりました。普通に仕事ができる人になっていったのです。でも自分の人生を生きている感じがしませんでした。その当時わたしは物流もマーケティングも経験して、営業も事業統合も分かってきたのですが、東日本大震災が起きたときに目覚めたのです。

倉重:2つ目の目覚めがきましたか。

伊藤:「ここでおれがやらないといけない」と思ったのです。その理由は3つあります。まず1つ目にダイエーの中内さんが、阪神淡路大震災の翌日から店を開けていたという記憶がありました。なぜだか分からないのですが、「店を開けていますから、皆さんいらしてください」と言っている中内さんがかっこいいと思ったのです。

 2つ目に、2004年に新潟県中越地震が起きたときに、わたしは物流の仕事をしていて「中内さんかっこいい」と思っていたのに、何もできなくて悔しい想いをした経験があります。

 3つ目に、悔しいと思ったときから大雪や地震、台風がきたときに、とにかく自分が先頭に立って物流の回復をするようになり、経験を積み重ねていった、ということがあります。

この3つのことがあったので、東日本大震災があったときに自動的に体が動いたのです。新潟県中越地震のときみたいに何もできなかったというのは絶対に嫌なので、ダイエーの中内さんのようにとにかく早く物流を復活させようと思いました。

 震災直後は、物流網もサプライチェーンもぐちゃぐちゃで、どうしたらいいのか途方にくれていた会社が多かった。その中で「いち早く物流を復活させるぞ」と決意したのです。言うのは簡単なのですがなかなかできません。みんな総論賛成なのですが各論になると「難しいですよ」「ほかのお客さんもいるので」といろいろな意見が出る中で、「いや、やるしかないのだ」と決めて進んで行ったのです。

リーダーの意思決定とは、「やること」と「やらないこと」を決めることです。それはリーダーしかできないのだと気づきました。

倉重:非常時は特にそうですね。

伊藤:まさに非常時のリーダーシップでFollow meと言ったときに、これが正しいか間違っているかではなくて、自分の想いに従って賛成の人もいるし反対の人もいる中でやっていかなければいけません。そのことが生まれて初めて分かったのです。

倉重:ようやくメインテーマにたどりつきました。

伊藤:そのとき44歳でした。40歳を超えて「待てよ、今まで仕事を一生懸命やっていたけれども、リーダーというのは自分で決めなければいけないから、つらいものだ」と思いました。リーダーが何も決めなかったら、自分で決めなければならないので、大変です。「自分が思い描いた通りにするためには、やるしかないだろう」というリーダーシップの原形が浮かびました。リーダーシップと言ったときに人を導くことをイメージされる人は多いのですが、その前に自分自身がリードされていないと駄目なのだということに気づいたのです。

倉重:Lead the selfですね。

伊藤:まさにLead the selfで、そこから10年間はLead the selfの旅に変わりました。

(つづく)

対談協力:伊藤羊一(いとう・よういち)

Zホールディングス株式会社 Zアカデミア学長

武蔵野大学アントレプレナーシップ学部(武蔵野EMC)学部長

Voicyパーソナリティ

株式会社フィラメントCIF(チーフ・イシュー・ファインダー)

株式会社ウェイウェイ 代表取締役

グロービス経営大学院 客員教授

日本興業銀行、プラスを経て2015年4月よりヤフー。現在Zアカデミア学長として次世代リーダー開発を行うほか社外でもリーダー開発を行う。2021年4月武蔵野大学アントレプレナーシップ学部を開設、学部長就任。代表著作「1分で話せ」。

弁護士(KKM法律事務所代表)

慶應義塾大学経済学部卒 KKM法律事務所代表弁護士 第一東京弁護士会労働法制委員会副委員長、同基礎研究部会長、日本人材マネジメント協会(JSHRM)副理事長 経営者側労働法を得意とし、週刊東洋経済「法務部員が選ぶ弁護士ランキング」 人事労務部門第1位 紛争案件対応の他、団体交渉、労災対応、働き方改革のコンサルティング、役員・管理職研修、人事担当者向けセミナー等を多数開催。代表著作は「企業労働法実務入門」シリーズ(日本リーダーズ協会)。 YouTubeも配信中:https://www.youtube.com/@KKMLawOffice

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