【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦迫る。石田三成の挙兵前、毛利輝元は驚異的なスピードで大坂へ向かっていた
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9月15日の関ヶ原合戦に際して、毛利輝元は嫌々ながら西軍の総大将に推されたかのようにいわれている。しかし、それは間違いで、やる気満々だった輝元は、信じがたいスピードで大坂に向かった。その背景とは。
■毛利輝元、広島を発つ
慶長5年(1600)7月15日、輝元は三奉行(前田玄以、長束正家、増田長盛)からの出陣要請を受け入れ、広島を出発した。
増田長盛や毛利輝元の家臣が徳川方に書状で機密を漏らしてから、わずか2日後の出来事である。
それだけでなく、毛利氏は肥後の加藤清正に上洛すら促していた(『松井家譜』所収文書)。もちろん、西軍に引き入れるためだろう。
三奉行の出陣要請を受け入れた輝元は、わずか2日後に広島から大坂に到着していた。その驚異的なスピードは、普通では考えられないと指摘されている。
そもそも、輝元が事前に石田三成らの動きを知っていなければ、驚異的なスピードで大坂に行くことが出来なかったはずだ。
輝元は三奉行や三成と結託していないどころか、家康がいた大坂城西の丸を占拠するなどし、むしろ積極的な姿勢で反家康の行動をとっていたことも明らかになっている。
■総大将に祭り上げられた輝元
同年7月15日、島津維新(義弘)は上杉景勝に宛てて書状を送り、輝元、宇喜多秀家をはじめ、小西行長、大谷吉継、石田三成が秀頼のために挙兵したので、同意するように求めた(『旧記雑録後編』三)。
この書状で挙兵に同意した面々がさらに詳しく明らかになり、輝元が総大将として祭り上げられたことを確認できる。
同じ事実が報じられたことは、同年7月16日付の蜂須賀家政書状(堅田元慶宛)によって裏付けられる(「毛利家文書」)。つまり、上方方面においては、すでに輝元らの挙兵が知れ渡っていたことが判明する。
島津氏の書状の日付が7月15日なので、同年7月17日付「内府ちがひの条々」(反家康の檄を飛ばした文書)以前に挙兵が画策されたのは明らかである。その後、毛利氏は家康与党だった蜂須賀氏の領国・阿波に侵攻する。
■広まる輝元と三成の情報
同年7月21日付の細川忠興の書状(家臣の松井康之宛)によると、すでに輝元と三成が結託した事実が知らされている(『細川家記』所収文書)。
その情報は、追い追い上方(大坂方面)から家康のもとに届くであろうと書かれている。そして、家康は事態を収拾するため上洛するであろうとし、康之に豊後で相応の措置をとるように命じた。
当時、忠興は下野宇都宮(栃木県宇都宮市)におり、康之は豊後杵築(大分県杵築市)で留守を預かっていた。この時点で、忠興はすでに九州の西軍勢力を把握していたのだろうか。
ところが、家康は7月21日の段階で、輝元や三成の挙兵を知らなかったのか、江戸城を出発して上方に引き返すことはなかった。
こうして関ヶ原合戦の端緒が切り開かれたわけだが、輝元は反家康の急先鋒として、驚異的なスピードで広島から大坂に向かったことを確認しておきたい。