「とにかく怖かった」。今だからこそ蝶野正洋が明かすビンタの重圧
大みそかに日本テレビ「笑ってはいけない」シリーズで強烈なビンタを見せてきたプロレス界の「黒のカリスマ」蝶野正洋さん(58)。今年は同番組の休止が発表されましたが、戦いを職業にしてきたからこそ感じていた「怖さ」。そして、胸に秘めてきた重圧を明かしました。
「ビンタはイヤ」
大みそかの「笑ってはいけない」シリーズ、最初からやらせてもらってますから、もう14~15年ですか。特に印象深かったのは最初の年のビンタでしたね。
オファーはもらったものの「ビンタはイヤだから他の形に変えてくれ」って言ったんですよ。
当時からビンタと言えば(アントニオ)猪木さんというイメージが強かったし、オレ自身、試合でもビンタはやらないし。なので、自分の中でビンタをすることへの戸惑いがすごくあったんです。
ただ、最初の年はスタッフさんも本当にバタバタだったし、オレが「ビンタを他の形に変えてほしい」と言おうと思っても、現場を仕切っているヘッドの人がどこにいるかも分からないし、結局、もうその場面になっちゃったんですよ。
そこまでなったら、ビンタをするしかない。ただね、今思っても一回目が一番怖かったんですよ。なんと言っても、素人を叩くというね。とにかく怖かった。
人ってね、前後の動きにはある程度耐えられるんだけど、横からの衝撃にはもろいんですよ。ビンタはまさに横からの衝撃だし、しかも相手は素人です。入れた瞬間に相手の体の軸がグニャッとなるんですよ。
「ある程度いかないと面白くないし、かといって力を入れ過ぎたら大変だし。加減が難しいですよね?」みたいなことを後々言われるようになったんだけど、今でもそこの答えなんかないです。さらに最初の年はそんなことを考える余裕も一切なかった。とにかくあったのは怖さだけでした。「壊すんじゃないか」という。
ただ、翌年はさすがにオファーはないだろうと思っていたら、何が良かったのか、またいただくことになって。しかも、ビンタをしてくれと。
そうやって十数年、(月亭)方正君をビンタしてきたわけですけど、基本は人を叩くこと、ましてやそれを見せること。オレは好きじゃないんです。
今のテレビゲームとか映像ものの残酷なシーンもどうなのかと思うし、お笑いのツッコミで頭を叩くのすらも好きじゃないし。
それくらいね、人を叩くということの怖さというか、壊すことの怖さ。それを知っちゃってるからだろうと思います。
プロの流儀
学生時代とか、ま、ケンカとかもするじゃないですか。ケンカは不意打ちでやった方が勝ちだからバーンといくこともありましたけど、このね、人の顔を殴った時の感触というのは残るんですよね。相手の顔面がグチャッとなるようなね。それがすごくイヤだったんです。
だから、プロレスに入ってもビンタもしない。チョップすらほとんど使わない。学生時代から意識が変わって、そういうスタイルになっていったんですよね。
プロレスは顔面への攻撃は認められてはないですし、基本的には鍛えられた部分を攻撃するというのがベースにもなっています。
そして、何よりプロの流儀というのは「相手にケガをさせずに力を見せる」ということ。それこそが本物なんですよね。
若手の頃はケガをしたり、させたりということも多かった。自分もケガをしてきて、痛みと怖さを知ってるわけじゃないですか。そうなると、やっぱりね、壊すことへの恐怖心がすごくあります。これはね、消えないんですよ。
人間の体は、思いもよらないことが起こるものです。今、自分はAED(自動体外式除細動器)の啓発活動もしてるんですけど、そこでよく話すことがあって。
1989年、新日本プロレスの東京ドーム大会で、オレがビッグバン・ベイダーとベルトをかけたトーナメントで戦ったんです。試合前に、ものすごく気合を入れて「よし、いくぞ!」と叫んだところからアドレナリンが出すぎちゃったのか、そこからの記憶が一切ないんです。
試合はものの5分ほどでやられて、控室に戻った。そこからシャワーを浴びて、着替えてタクシーに乗って帰るんですけど「よし、いくぞ!」から3時間の記憶がないんです。
記憶が戻ったのがタクシーに乗ったところ。運転手さんに「…すみません、このタクシー、今どこから出てるんですかね」って聞いたんですよ。ドームにいることも分からなくて。
脳震盪なんかで同じようなことが起こったりはしますけど、気合を入れ過ぎても意識の外に出ちゃうことがあるというかね。その間は体は無制御ですから。何があってもおかしくなかったのかもしれない。考えれば考えるほど怖いです。
要は、思いもよらないことが起こるのが人間の体なんです。これでもかとトレーニングをして、経験を積んでいる人間でもそうなるんです。だから、ビンタ一つでも思いがけないことが起こるかもしれない。その怖さはずっとありました。
それでもね、毎年やってきたのは関わっているスタッフさんのプロ意識を感じたからだと思います。
一つの笑いのために、皆さん命をかけてらっしゃる。その情熱を感じて、そこに自分も関わるんだったら生半可なことはできないという覚悟というか。
あと、これは言葉にしづらい領域でもあるけど、方正君とオレとの関係性というかね。向こうは本気で嫌がってるんですよ。でも、その向こうに多くの人に喜んでもらいたいとか、楽しんでもらいたいというさらに本気の思いがある。その奥底の部分で響き合うというか。それもあったと思います。
ビンタのない年末
結果的にビンタを毎年やってきたことで、オレのイメージとか「何で知ってもらっているか」ということも変わってきたと感じています。
20代から30代前半の人は、レスラーとしてのオレの姿は見てないんですよ。完全に“ビンタの人”なんです。それより上の年代ではプロレスで知ってくれている人も多いけど、若い人は完全にビンタです。
ビンタは年に1回。かたやプロレスは3000試合くらいやってるんですよ。いかにインパクトが大きかったかを思い知らされますし、正直な話、微妙なところもありますけどね(笑)。
ただね、今は消防団のサポートをしたり、救命救急の啓発活動のお手伝いをしたりもしてるんですけど、やっぱり、それをやる以上はオレのことをみんなが知ってくれてないと意味がない。
今でも変わらず殴ることへの抵抗はありますけど、その一方でビンタから得たものもすごく大きかったと感じています。
それこそ、相撲界の暴力みたいなことだとか、他にも有名人の暴行みたいなことがあった時に、オレのところに「どう思いますか」ってコメントを求めに来るメディアもたくさん出てくるようになって。
オレは別にビンタの専門家じゃないんだけど(笑)、人前に出る仕事をする上では人から求められるというのは大切なことだし、そうやって聞きに来てもらえるからこそ「オレは殴るのはダメだと考えている」とも言えますしね。
毎年「笑ってはいけない」の収録があるのが10月とかかな。その少し前から、方正君は体調が悪くなると。それはね、オレも一緒なんです。
長時間収録している方正君らと違って、オレがやることと言えば15分か20分ほどのもんです。でもね、そこに怖さがある。そして、撮り終わって放送が終わるまではね、やっぱり評判とか視聴率も気になります。多くの人が関わってる大きな舞台ですから。だからね、ビンタ一つで2~3カ月は毎年憂鬱だったんですよ。
プロレスラーとしてガンガンやってた頃は毎年1月4日に大きな大会があったのでそこに向けて年末は気が重かった。ここ十数年はビンタで気が重かった。よく考えたら、ここ30年くらいはずっと憂鬱な年末だったんですよね。
本当に久しぶりですよ、リラックスして迎える年末は(笑)。ただ、それくらい圧のかかることをやってきたということは、どんな形にせよ、そこに何かしら意味があったと思いたい。
そして、とにかく今はね、まずゆっくりしたい(笑)。それくらい、苛烈な年末だったんだなと逆に今感じています。
(撮影・中西正男)
■蝶野正洋(ちょうの・まさひろ)
1963年9月17日生まれ。東京都出身。84年、新日本プロレスに入門。91年に「G1 CLIMAX」第1回大会で優勝。2002年、新日本プロレス取締役に就任。10年に退団してフリーになる。17年からプロレスを休業。ファッションブランド「ARISTRIST(アリストトリスト)」も手掛ける。日本消防協会「消防応援団」、日本AED財団「AED大使」などの肩書も持ち、19年には書籍「防災減災119」を上梓。YouTube「蝶野チャンネル」も展開中。