同期・横山典弘騎手と共に挑んだドバイ遠征を、松永幹夫調教師が振り返る
40年来の仲の同期と挑んだドバイ
現地時間3月30日、ドバイ、メイダン競馬場で開催されたドバイワールドカップデー。この日、行われたドバイターフ(GⅠ、芝1800メートル)にマテンロウスカイ、UAEダービー(GⅡ、ダート1900メートル)にはバロンドールを送り込んだのが栗東で開業する調教師の松永幹夫だ。鞍上はいずれも横山典弘だった。横山の事を“ノリ”と呼ぶ松永は言う。
「ノリとは競馬学校時代の同期だからかれこれ40年以上の仲になります」
そんなタッグで挑んだが、残念ながら今回のレースはいずれも最良の結果とはならなかった。マテンロウスカイは15着に敗れ、バロンドールも6着に終わった。松永が続ける。
「マテンロウスカイは日本を発つ際、飛行機のカーゴに載せる時から緊張していたようで、20キロくらい体が減ってしまいました。それでも出走出来る態勢は整ったと思えたのですが、最後はノリが無理しなかったという感じでした。また、バロンドールはノリ的には出来ればハナへ行きたかったみたいだけど、最後は脚を使ってくれたし、それなりに競馬はしてくれました」
こういうと、更に続けた。
「結果は残念だったけど、ノリも言っていたように『無事に終わったのは良かった』です」
マテンロウスカイが出走したドバイターフではアメリカのキャットニップが故障を発生し、予後不良。落馬したC・ルメールも大怪我を負ってしまった。また、横山と共にドバイへ飛んだホクトベガ(1997年ドバイワールドC出走)が再び日本の地を踏む事なく、かの地で星となってしまったのも、有名な話。それだけに大ベテランの言う「無事に終わったのは良かった」という言葉は重みが違った。
そして、無事に終わったからこそ、言える言葉を、指揮官が更に続けた。
「ノリとこうやって海外の大レースに一緒に挑戦が出来て嬉しいですし、寺田オーナー夫妻(マテンロウスカイが寺田千代乃さん、バロンドールはご主人の寺田寿男氏)には感謝しかありません」
現地では2晩にわたり、オーナー夫妻や横山典弘と一緒に過ごしたと言う。そんな中、56歳の今でも現役の同期は、勝負に対する熱い気持ちを語ってくれたそうだ。
「勿論、相手は強い事は重々承知していました。それでも『競馬だからやってみないと分からないので、諦める事なく挑む』と前向きに話していました」
当然、雰囲気は良く、話は今回のレース以外の部分にも及んだと続ける。
「ノリが日本馬と共にドバイのレースに臨むのはホクトベガ以来だけど、途中、招待レースに呼ばれた事がありました。それが、レッドディザイアがドバイで前哨戦(アルマクトゥームチャレンジラウンドⅢ、当時GⅡ、現アルマクトゥームチャレンジ、GⅠ)を勝った時と同じタイミングで、現地で一緒に写真を撮りました。そんな思い出話にも花が咲きました」
松永が見た横山の衰えぬ姿勢
また、松永が騎手時代にヘヴンリーロマンスで天皇賞・秋(GⅠ)を制し(2005年)、レース後、時の天皇皇后両陛下に最敬礼したのは有名だが、その際にはこんなエピソードがあったと続ける。
「あの時、1番人気で2着だったのが、ノリのゼンノロブロイでした。最敬礼に関しては、レース前日にJRAを通して通達があったのですが、それを聞いたノリは『ロブロイに乗りながらそれをするのは難しい』と言ったそうで、最近になって『そんな事を言っているようじゃ、勝てないわけだ』と自らの慢心を諫める言葉を口にしていました」
更に続ける。
「今でも闘争心は失っていないから、どんなに人気薄の馬でも負ければ凄く悔しがっています。そんな姿に気持ちの面でも衰えは全く感じさせないけど、その上で『昔は俺が乗れば何でも勝たせられるくらいに勘違いしていた』なんて言葉も口にしています」
熱い気持ちは失わないまま、冷静に自らを見つめ直し、改善、改良をしながら上を目指している事が分かる言葉であり、ベテランが乗り続けていられている理由が分かる言葉でもある。
今回のドバイ挑戦に関し、松永が改めて口を開く。
「ノリと一緒に過ごして、挑めた時間は本当に嬉しかったし、楽しかったです。勿論、また一緒に挑戦しに行きたいです」
競馬学校では横山に対し「小さいけど、運動神経抜群」という第一印象を感じた。その後、厩舎開業時には「いずれ彼に乗ってもらえるような馬を作るのが目標の1つ」と語った。そんな横山からは現在「幹夫の馬ならどんな馬でも乗るよ」と言われていると言う。
こんな素敵な関係の2人が、世界を舞台に戦うシーンをまだまだ見たいと願うファンは多いだろう。来年のドバイでも、いや、ドバイに限った話でなくても良い。そんな場面をまた見られる事を願いたい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)