1941年の新年をお祝いしたラトビアのユダヤ人写真:ホロコーストを生き残れたのは16人のうち3人のみ
第2次世界大戦時にナチスドイツによって約600万人のユダヤ人が殺害された、いわゆるホロコースト。イスラエルにはホロコースト犠牲者を追悼したヤド・ヴァシェムという博物館がある。
2022年12月31日にヤド・ヴァシェムのツイッターで1枚の写真を紹介していた。82年前の1940年12月31日の夜に1941年の新年を祝うために集まったラトビアのリガの16人のユダヤ人の男女が仮装パーティで楽しそうに写真に写っている。
リガは1940年12月にはソビエトが侵攻支配していた。そして1941年6月にはナチスドイツが侵攻してきて、ラトビアのユダヤ人はアクティオン(行動)と呼ばれる大虐殺や、強制収容所に移送されて処刑されてしまった。もしくは「ナチスドイツに殺されるくらいなら」とソビエトが多くのユダヤ人をシベリアに移送してシベリアで労働に従事させられて死亡した。
戦前のリガには人口の3分の1にあたる約4万人のユダヤ人がいたが、ほとんどが死亡した。リガの重要な経済やビジネスはほとんどがユダヤ人で、弁護士の25%がユダヤ人だった。この写真に写っている16人のうち生き残ったのは3人だけで、2人は名前もわからない。
ナチスドイツにとって一番不要だった写真と「記憶のデジタル化」とデータベース化
ヤド・ヴァシェムでは約480万人のホロコースト犠牲者のデータベースがあり、それらは世界中からネット経由で閲覧することもできる。約600万人のユダヤ人が殺害されたが、残りの120万人は名前が判明していない。第2次世界大戦が終結して70年以上が経過し、ホロコースト生存者の高齢化が進んできた。生存者が心身ともに健康なうちにホロコースト時代の経験や記憶を証言として動画で録画してネットで世界中から視聴してもらう「記憶のデジタル化」が進められている。このような思い出の写真のアーカイブを見ることができる。
またヤド・ヴァシェムでは、このような当時の写真のデジタル化とオンラインでの展示も進めている。現在のようにスマホで誰もが簡単に撮影できる時代ではなかった。80年前はカメラも物凄く貴重なものだった。今のように若い人でもスマホで日常の写真を大量に撮影できる時代でなかった。カメラも裕福な家庭なら1家に1台あったが、多くの人は友人や親せきから借りてきて使っていたり写真屋さんに撮影してもらっていた。だから結婚式やユダヤの成人式、このような新年を祝ったパーティ、休暇で旅行に行った時など特別な記念日しか写真撮影はできなかった。そして1枚1枚の写真が全てのユダヤ人の思い出が詰まっている。
さらにヤド・ヴァシェムではホロコースト犠牲者の身元確認とデータベース構築も進められているが、ナチスドイツによって完全に消失したユダヤ人集落などもあり、全ての犠牲者の名前や写真を収集してデータベースに格納することは難航している。
ナチスドイツはユダヤ人から没収した洋服や宝石類、家財などはドイツに送ったりしたり、換金したり、軍事に転用したりしていた。だがナチスドイツにとってはユダヤ人の思い出の写真は一番不要なものだった。強制収容所に移送されたユダヤ人の多くは思い出の写真を大量に収容所に持って行った。だが、ユダヤ人にとっては思い出の写真でもナチスドイツが管理する収容所にとってユダヤ人の写真は一番役立たないものであり、そのほとんどが到着と同時に没収されて廃棄された。また写真だけは辛うじて残っているが、それが誰の写真なのか全くわからないものも多い。
この写真でも16人のうち2人は誰だかもいまだにわからない。特に旧東側諸国の国では冷戦期に情報開示をいっさいしなかったことから、その期間に失われてしまった情報、写真や文書、亡くなってしまったホロコースト生存者がとても多い。ナチスドイツも殲滅する予定だったユダヤ人の写真は一番不要なものだったし、冷戦期の旧ソ連もホロコースト時代のユダヤ人殺害の話題はタブーだったので、このように写真が残っているだけでも奇跡的なことだ。
▼ヤド・ヴァシェムの公式SNSより