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アメリカから問う反核・原爆批判-映画『オッペンハイマー』を巡って

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
ロンドン・プレミアの際のロバート・ダウニー・Jr.。氏は本作でL・ストローズ役(写真:REX/アフロ)

・日本公開前に物議をかもした映画『オッペンハイマー』

 クリストファー・ノーラン監督の最新作『オッペンハイマー』が本邦で公開されて、約1か月弱というところである。興行的には順調とのこと。アメリカでの公開が昨年7月21日であったのが、本邦ではそれより約9か月遅れたのは、単に配給関係の諸事情ということであろうか。

 が、本作はアメリカで同時公開された『バービー』(グレタ・ガーウィグ監督)とのコラボ販促等の演出において、「原爆を茶化している」「広島・長崎の被爆者を嘲笑するもの」「原爆投下を正当化している」などの批判にさらされ、日本人ユーザーの物議をかもしたことは記憶に新しい。

・アメリカから問う反核、原爆批判~決して難解な作品ではない

 以下、ネタバレを含む(とはいえ、オッペンハイマー博士の半生を忠実に描いた歴史的伝記映画に”ネタバレを注意する”という構造もいささか奇妙ではあるが)ので注意して読まれたいが、結論として本作『オッペンハイマー』は、広島・長崎に原爆を投下した加害国であるアメリカから問うた反核・原爆批判映画として出色の出来となっている。

 それどころか原爆を投下された被害者である日本でこそ、この映画は広くみられるべき傑作であると私は確信するに至った。

 本作の展開は、オ博士の青年時代から始まるが、と同時に戦後、オ博士が「戦前に共産党や社会主義者と関係があった」ことを理由に、核開発の機密をソ連に漏えいさせたスパイではないのかと査問される非公開査問会(それと公聴会を含む)という時間軸を、複雑に行き来する「メタ的」構造を有する。

 この複数の時間軸が交錯するという演出は、クリストファー・ノーラン監督のお家芸であり、一躍監督の名を世に知らしめた『メメント』を筆頭として、『インセプション』『テネット』そして『インターステラー』などでもいかんなく発揮されているのだから、時間軸の交錯(単純な演繹、帰納法でない)があるからと言って、これを「難解だ」として切り捨てるのは、単に映画を見慣れていないか、ノーラン演出に初めて触れるかのどちらかであろう。

 それを言うのであれば、S・キューブリック監督の『現金に体を張れ』を筆頭として、Q・タランティーノの『パルプフィクション』『ジャッキー・ブラウン』や、最近ではTVドラマ『24』も理解不能と言っているのとほとんど同じなのであって、本作『オッペンハイマー』は実に単純明快な作品構造を有しているのであるから「難解」などという駄評に惑わさるべきではない。

・「ナチス対策」のための原爆開発

1930年代は理論物理学においてドイツが世界をリードしていた。写真はのちにナチスの核開発に携わるハイゼンベルク(引用,米Public Domain)
1930年代は理論物理学においてドイツが世界をリードしていた。写真はのちにナチスの核開発に携わるハイゼンベルク(引用,米Public Domain)

 さてオ博士は純然たる物理の学究の徒として、1930年代にあっては理論物理学の先進国・ドイツの影響力が及ぶ欧州を遊学する。1930年代における理論物理学はドイツが先行しており、かの国ではハイゼンベルク博士がその名を知られていた。ドイツではヒトラー内閣が1933年に誕生するが、「ボヘミアの伍長」と揶揄されたヒトラーが瞬く間に政敵を白色テロで駆逐し、完全な実権を握ることになる。

 ヒトラーがポーランド侵略を行うのは1939年9月1日であり、これが第二次大戦の開始になるわけだが、その前哨戦としてスペインではフランコ将軍率いるファシスト軍(ファランヘ党など)と、社会主義者や無政府主義者ら(人民戦線)が支援する政府軍の内乱が勃発(スペイン内戦)し、オ博士は自身がユダヤ系の出自である(反ドイツ)ということと、当時のインテリとしてはさして珍しくはないがマルクスにかぶれたということで人民戦線を支援するという政治的行動にでるわけだが、この辺の背景は本作では一切説明されていないので、最低限スペイン内戦に関する基礎知識を持っていた方が楽しめるだろう。かの有名なピカソ作「ゲルニカ」からたどるのもよろしい。

 本作が興味深いのは、1939年9月1日のナチ・ドイツによるポーランド侵攻の新聞紙面にオ博士とその周辺が衝撃を以て受け止めるのに対し、1941年12月8日の日本軍真珠湾奇襲の模様が一切、描写されない点である。

 それもそのはずだ。史実を紐解けば、当時理論物理学で世界をリードしていたドイツが、ナチ政権下でもし原爆を開発すれば、欧州はおろか世界全体が悪夢のごとき結果となる。それへの対抗のために、オ博士らは核研究を推し進めるのであるが、それらの理由はすべて「ナチス対策」であって、極東のちっぽけなファシスト国家である日本の動向など関係がなかったからである。

 本作でナチのポーランド侵攻が明瞭に描かれるのに対し、日本の真珠湾攻撃に一切言及がないのは、つまるところ「広島・長崎への原爆投下は真珠湾の報復」という理屈を否定しているからである。「リメンバー・パールハーバー」の掛け声で、アメリカは学童疎開船対馬丸への雷撃や、東京大空襲などを正当化してきた。

 しかし原爆開発は、初めから「ナチス対策」であった。「ナチが核を開発する前にアメリカが何とかしなければ」というのが動機のすべてであって、そこに日本の出番はない。事実、本作は3時間に及ぶ長尺映画であるが、「JAPAN」という単語の初出は実に1時間半近くたってからのことである。これはノーラン監督による「原爆開発計画の背後に、日本への対抗や憎悪はなかった」という史実の強調であると私はとる。

 とはいえ、結局アメリカは広島と長崎に原爆を投下して我が方の無辜の人民を無残にも焼き殺したのである。このことを本作はどう総括しているのか。ナチ・ドイツは、連合軍のノルマンディー上陸以降、ナチ占領下の仏・ベルギー方面から圧迫され、東からはソ連軍の猛攻(バグラチオン作戦)により、東欧の枢軸国が続々降伏して瀕死状態であった。よって総統ヒトラーはベルリンの地下壕で自決し、1945年5月にドイツは無条件降伏する。他方ドイツの同盟国たる日本も、1945年6月に沖縄を失陥して、大都市空襲の洗礼と海上封鎖等を受け降伏は時間の問題と言えた。

「マンハッタン計画」と呼ばれる一連の原爆開発は1942年から始まったが、あくまでこれは再三再四言うように「ナチス対策」であって、ドイツが降伏したとあっては、全然体(てい)をなさないプロジェクトになってしまった。実際本作では、「マンハッタン計画の主目的(主敵)であるドイツが降伏した以上、この計画は無意味である」などと技術者らが演説する場面がある。

 ここは重要なところだから何度も繰り返すが、アメリカは原子爆弾を作って、初めから無辜の日本人を焼き殺そうと企てていたわけではない。むしろナチスが核兵器を持つ前にこちら(アメリカ)が先に保有して、ナチスを抑止しようとしたのがアメリカのマンハッタン計画の実相である。

 本作ではここで、オ博士の「世俗的」一面が強調される。ドイツが降伏したのだから原爆研究はもう無意味という研究者の一派に対して、「確かにドイツは降伏したが、まだ日本が残っている」と言い放つシーンだ。

 アメリカ政府が極秘裏に推進してきた国家プロジェクト「マンハッタン計画」が、実際の「使用」を伴わないと、今までの努力は何だったのか(ましてその研究はアメリカ有権者の税金で賄われたのに)―という徒労が生まれる、という単純な理由で、オ博士は日本への原爆投下を支持するような言動をとるのである。また巨費を投じて製造された原爆が、実際に未使用に終わるとすれば、その技術責任者であるオ博士の沽券にかかわるのは当然である。この時期のオ博士には、名誉欲と学者としての誠実性が共存しており、本作ではあくまでオ博士の奔放な異性との交遊(不倫を含む)を織り交ぜることで、世俗欲が勝ったかのように描かれている。

 つまりオ博士は「いまさら広島・長崎に投下しなくてもよい原爆を、”使用するように”仕向けた」という位置づけで描かれている。広島・長崎への原爆投下の直後、日本はソ連の対日宣戦布告に衝撃を受け、ポツダム宣言を受諾し無条件降伏する。オ博士は第二次大戦を終わらせた「原爆の父」、英雄として一躍時の人になるのである(事実としては、日本降伏の決定打は、ソ連を仲介として講和交渉をしていた大本営と政府による講和願望の粉砕であった)。

・「原爆の父」から「ソ連のスパイ」疑惑へ

1946年、マーシャル諸島における大気圏内核実験
1946年、マーシャル諸島における大気圏内核実験提供:U.S. Navy/ロイター/アフロ

 さてそののちオ博士はどうなったであろうか。「原爆の父」として時の人になったオ博士は、東西冷戦が勃発するや、ソ連も核実験をして原爆を保有するようになると、たちまちアメリカ政府中枢から「マンハッタン計画で知りえた技術を、ソ連に漏えいさせたのではないか」というスパイの嫌疑がかけられるようになる。

 事実、マンハッタン計画が進行する前から、アメリカにはソ連のスパイが多数ネットワークを作っており、アメリカ国内の親ソ関係者らは様々な情報を仕入れてはモスクワに送信していたのは事実だ。

 しかしオ博士は確かに縷々述べたようにマルクスにかぶれはしたが、マンハッタン計画で知りえた原爆開発のノウハウをソ連に流した事実はない。むしろオ博士はアメリカ政府という国家の強制によって、ナチス対策という美名があったとしても、その才能を国家に献身的に提供した愛国者ということもできる。

 だがドイツや日本の枢軸が敗れ去り、新たなアメリカの敵が、戦中に連合国と協力していたソ連ということになるや、途端にオ博士はソ連のスパイ扱いされる。国家に貢献した人物が一夜にして「売国奴」として罵倒される理不尽さを、本作はあますところなく描いている。

・ノーラン演出の真骨頂

 本作『オッペンハイマー』は、理系分野に対する素人にとって分かりづらい核分裂や、中性子の放出などという理論物理学の抽象的分野を克明に映像化したことが特筆される。ほとんどの観客は、「核分裂」という言葉は知っていても、それが実際にどのようなビジュアルになるのかを知らない。だからこそそれを映画的演出により描写する価値があるのだ。

 むろんそれは当然CGであるが、物理方程式を理解できない大多数の観客には、核分裂や核連鎖反応がいかなる超常的な、指数関数的に巨大な力を持つか、というビジュアル的ニュアンスが、嫌というほど伝わったはずである。

 オ博士は戦後、ウラン爆弾ないしプルトニウム爆弾からなる原爆をさらに超越する水素爆弾の開発に際しては、「非協力」の姿勢を堅持した。その背景には、戦後アメリカにもたらされた広島・長崎被爆者の凄惨な火傷や放射線後遺症の記録を縦覧したから、ともされる。

 オ博士は懊悩はあれど、原爆開発を推進し、その責任者となり、広島・長崎に原爆を投下した罪(―もっとも原爆投下にGOサインを出したのはトルーマン米大統領だが)を自覚しつつ、あたかも核廃絶運動論者に転換したような後世を送った。とはいえこういったオ博士の戦後における人生をたどれば、自分の作った原子爆弾が、広島・長崎に投下されて、無辜の日本人民を焼き殺したことへの後悔と懺悔の魂魄(こんぱく)、そして「謝罪の意」のあらわれであろう。

・手あかのついた「原爆正当化論」を否定

 以上のことから分かるように本作『オッペンハイマー』は、オ博士の反省をたどりつつ、自らが創造した原子爆弾が人類を滅ぼす序曲とイコールであることを説く。核兵器の恐ろしさと使用されたときの凄惨さを知らず、オ博士の武勇にまみれた演説を待ちわびる聴衆の足踏みと、それと同期する機関車の駆動音は、「もう後戻りできない核の世界」の漆黒を如実に表している。

 広島・長崎に原爆を投下したからこそ、多くのアメリカ兵の命が助かり、そして日本降伏につながったのだから、本土決戦をしていたとしたら数百万でていたであろう日本人民の犠牲すら救ったのだから、原爆投下は正しいのだ―、という手あかのついた「原爆正当化理論」にあっては、オ博士が戦後の非公式査問会について徹底的に尋問官から追及される。

 無辜の日本の子供たちを何万人も焼き殺すとわかっていながら、なぜ原爆を作ったのか。なぜそれを正当化するのか。原爆投下によって戦争が早く終わったのだというが、日本はもう瀕死の状況にあったのではないか。原爆を作ったことに良心の呵責はないのか―。このように問われてオ博士は一通り弁明するが、それらは全部自己保身のための方便であることは、不気味に揺れ動くカメラの画角と不快な背景音の演出によって語られている。

 核の恐怖に無知で、広島・長崎への原爆投下に無邪気に騒ぐアトミック村の住民たち。オ博士だけが虚無と動揺を隠せない。むしろその表情は茫然と言ってもよい。あらゆる演出を鑑みても、本作に通底するのは反核と原爆批判だ。

 他方、広島・長崎の実際の被爆状況が一切描かれていないという批判もある。確かに本作では被爆地の直接の惨状は登場せず、オ博士のイマジナリーとして炭化した死体らしきものや、あたかも熱線で皮膚がただれたことを若干伺わせるようなリフレクションが登場する。もちろんそれは原爆被害の実相からはほど遠いものだ。

 だが、被爆地の実相を具体的に描写することは本作の総合的な作品バランスと相反する。もしそうすると本作は『オッペンハイマー』ではなく、なにか別の作品になってしまうだろう。被爆地の実相をあえて描写しなかったことは、作品構成上の必然であり、本作の価値を毀損するものではまったくない。むしろそれを描かないことにより原爆の恐怖がより一層際立つ意図になっているようにも思う。

 そしてオ博士の脳内では、核戦争による人類の破滅が浮かぶ。明らかにバッドエンドである。これまたよくある手あかのついた核抑止論ですら、本作を見ると否定されていると思われる。

・ボールは被爆国日本に投げられている

広島市原爆資料館にある、広島原爆炸裂の際の「火球」の模型と広域ジオラマ
広島市原爆資料館にある、広島原爆炸裂の際の「火球」の模型と広域ジオラマ写真:ロイター/アフロ

 原爆を投下した加害国のアメリカから、こうしてはっきりと反核・原爆批判が出てきた。この作品がアカデミー賞を総なめにしたのは実にうなづける。アメリカではいまだ、前述した「原爆正当化理論」を支持する向きが強いが、その割合は各種世論調査によると年々低下している。

 アメリカによる広島・長崎への原爆投下はアメリカの間違った国策であった―、という認識は着実に広がっている。アメリカ映画界で言えば、O・ストーン監督などがその筆頭である。アメリカは今、原爆への反省と贖罪というステージに入りかけている。

 問題は被爆国日本の実情である。広島県の副教材から『はだしのゲン』が除外されたことは記憶に新しいが、そのほかにもオバマ元大統領が広島を訪問した折に原爆資料館横の被爆地下遺構(発掘中)を一時埋め戻す、など「加害国アメリカに原爆の凄惨さを訴える動きは避けたほうが良い」といった対米忖度がますます強まっている。

 その背景には防衛面において対米依存をますます強める日本側が、尖閣諸島や北朝鮮について、アメリカの機嫌を損ねたら守ってくれなくなるのではないか―、という卑小な計算が働いているとみる。しかしその程度の心理的温度差で、歴とした二国間条約である日米安保が条文通り発動されないなら、そもそも日米安保とはその程度の軽いものだった、というほかないが、極めて情けない。

 原爆加害国、アメリカで真正面から核と原爆にNOという映画ができ、それが大ヒットし高い評価を得ていることは、これはボールは日本側に投げられているといえる。つまり「被爆地の惨状の描写がない」というのであれば、それは本作『オッペンハイマー』の管轄外なのだから、日本映画界が自分たちの力でそのことをより強調した被害者、被爆者目線の大作映画を作るべきである。『オッペンハイマー』に対する返答はいま、日本側に求められているのだ。(了)

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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