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小山評定は、なぜ開催をめぐって大論争になっているのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 小山市立博物館(栃木県小山市)では、企画展「小山評定とその時代の軍装」が開催されている。ところで、小山評定は近年になって大論争になっているが、その理由について考えてみよう。

 慶長5年(1600)6月、徳川家康は上洛を拒否した上杉景勝を討伐すべく、会津へと出陣した。翌月、増田長盛ら3人の奉行が「内府ちかひの条々」を諸国の大名に発し、家康を討伐すべく檄を飛ばした。西軍の決起である。

 西軍の決起を知った家康は、いったん会津征討を中止し、西軍への対処を考える必要が生じた。そこで、7月25日、家康は小山(栃木県小山市)に諸将を召喚し、会議を催した。この会議こそが小山評定であり、家康の運命を大きく変えた。

 通説によると、小山評定ではまず石田三成らの挙兵が知らされた。諸将の中には、大坂で妻子が人質になっている者もいたので、家康は「どちらに味方するかは、各自の判断に任せる」と述べた。

 すると、福島正則が率先して、妻子の命を擲ってでも、家康に与することを宣言した。諸将は正則の言葉に次々と賛意を示した。流れは大きく家康支持に傾いたのである。正則に率先して家康に与する発言をするように仕組んだのは、黒田長政だったといわれている。

 結果、まず三成らを討つことになり、先鋒として福島正則と池田輝政を清洲城(愛知県清須市)に遣わすことになった。加えて、遠江国掛川城(静岡県掛川市)主の山内一豊は、家康に城を提供すると申し出た。すると、東海道沿いに居城を持つ武将たちは、皆同じ申し出をした。

 こうして家康は宇都宮に結城秀康(家康の次男)を上杉氏の備えに置くと、7月26日以降、次々と諸大名が西上していったのである。しかし、以上の話は二次史料に書かれたことで、小説や時代劇のネタにもなった。

 小山評定を探るうえでの最大の問題点は、根拠となる一次史料(同時代史料)がなく、二次史料にしか経緯を示す記述がないことである。その結果、信頼度が高いとされる二次史料を分析し、関連する一次史料をもとにして、家康がいつの時点でどこにいたのかが焦点となった。

 当初、「小山評定はなかった」という説はセンセーショナルに伝わったが、現在は「あった」と考える説が優勢だろうか。論争は今も続いているので、今後の研究に注目したい。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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