「どうする家康」徳川家康の妻・築山殿は、本当に悪女だったのか
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大河ドラマ「どうする家康」の主人公・徳川家康の妻・築山殿は、悪女だったといわれている。今回はその点について、詳しく考えてみよう。
築山殿は、今川氏の家臣・関口氏純の娘として誕生した(生年不詳)。ご存じのとおり、当時の家康は今川氏の人質だったので、政略結婚として2人は結ばれたのである。
築山殿の生年は不詳であるが、一説によると家康より年上だったとの指摘もある。また、築山殿は人質だった家康を見下し、軽蔑していたとも伝わる。後世の史料による築山殿の評価は、次のとおりである。
「生得悪質、嫉妬深き御人也」(『玉輿記』)。
「無数の悪質、嫉妬深き婦人也」(『柳営婦人伝』)。
「其心、偏僻邪佞にして嫉妬の害甚し」(『武徳編年集成』)。
「凶悍にてもの妬み深くましまし」(『改正三河後風土記』)。
『改正三河後風土記』に至っては、築山殿が唐人医師の減敬と密通していたと書いている。むろん、これらの史料は後世に成ったものであり、家康への配慮もあったので、このような評価になったのかもしれない。もちろん、裏付けとなるたしかな史料はない。
家康は側室として於万という女性を迎え、天正2年(1574)に結城秀康を産んだ。しかし、築山殿は激昂し、於万をいじめ抜いたうえ、城から退去させたという。こうした話が伝わるにおよび、築山殿の評判はますます下がっていった。
やがて、家康は三河国内を統一し、旧今川氏領国の遠江に支配権を及ぼした。元亀元年(1570)になると、家康は12歳になった信康を元服させ、岡崎城(愛知県岡崎市)を任せた。つまり、家康は三河を信康に任せ、自身は遠江支配を行おうと考えたのである。
こうして、家康は浜松城(静岡県浜松市)に入り、信康のサポートをしつつ、遠江の支配を行った。とはいえ、妻の築山殿は浜松城ではなく、信康のいる岡崎城に住むことになった。2人の別居は、のちに悲劇をもたらすことになる。