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ちょっと気は早いが……春夏連覇を目ざす敦賀気比のライバルは創部4年目!

楊順行スポーツライター

センバツで福井県勢として初優勝を果たした敦賀気比は、春季福井県大会でも優勝し、6月の北信越大会に進出した。福井工大福井との決勝は、センバツではベンチに入れなかった右腕・榎本光樹が先発して好投し、満塁男・松本哲幣の逆転打などで7対3と圧倒。春の王者としての貫禄を見せつけた。

連覇に向けた夏も、福井代表の最有力候補であることは間違いないが、ちょっと待て。県内には打倒気比に燃える強力なライバルがいる。その名は啓新。昨夏の準決勝でも対戦し、9回に4点を奪った啓新が一時逆転に成功しているのだ。昨秋もやはり準決勝で当たり、ここも気比の8対3。またも準決勝で対戦したこの春、やはり4対2で気比が勝利したが、センバツ後初めてエース・平沼翔太を先発させたことでも、いかに啓新を警戒しているかがわかる。

耳慣れない校名である。もともとは福井女子高校として1962年に開設されたが、98年、共学化と同時に啓新に改称。野球部創部は12年で、夏には1年生だけで1勝を記録し、敗れたものの敦賀気比にも1対5と善戦した。その秋には、県大会で福井工大福井を下し、準決勝では翌春のセンバツに出場する春江工に0対1。3位決定戦も福井商に1対2とサヨナラ負けしたが、甲子園常連校と互角以上の戦いを演じてみせた。

率いるのが、大八木治監督である。70年夏、原貢監督率いる東海大相模(神奈川)の控え捕手として全国優勝を経験し、東海大卒業後は東海大相模のコーチ、東海大助監督を経て79年、東海大甲府(山梨)の監督に就任。81年夏の初出場を皮切りに、春夏13回の甲子園出場を果たしている。その間の17勝11敗も見事だが、春2回、夏1回の4強入りと、山梨県勢の最高成績を3回マーク。甲府時代の教え子・久慈照嘉(のち阪神など)が「僕の原点は大八木野球」と絶賛するように、相手を徹底的に丸裸にし、弱点を突くのが真骨頂だった。

91年限りで東海大甲府から東海大高輪台(東京)に、さらに神奈川の相洋へ移り、甲子園とは縁がなくなっていたが、高校開校50周年の節目の創部にあたり、啓新が招いたのがその大八木監督だった。

昨夏甲子園4強の気比を、あそこまで追い詰めたのはウチだけ

「ただ……2年間は、苦しかったですね」

昨年末にたずねたとき、大八木監督はそう切り出したものだ。

「どうにか16人の1期生は集まりましたが、創部ほやほやですから、ボールもバットもない。OB会や後援会のしがらみもないかわり、支援もない。かつての教え子に頼み込んで、なんとか用具を寄付してもらいました」

自ら夫婦とコーチ陣、そして1期生が暮らすのは、築60年の元銀行寮だった。すきま風をふさぎ、ペンキを塗り直し、カーペットを敷いてなんとか見かけは取り繕っても、階上で生徒が動けばガタピシときしむ。寮母がわりの秀子夫人は、早朝4時半起きで朝食をこしらえ、洗濯をし、また夕食の仕度に3時間という日々だ。

さらに、グラウンドも雨天練習場もないから、授業の合間にグラウンド手配の電話をかけまくり、雨の日も屋内施設の確保に忙殺された。だから練習試合で他校に出かける土日が、もっとも実のある練習だった。それでいてその夏、初戦は金津に5対2で公式戦初勝利を挙げると、先述のごとく敦賀気比に1対5の善戦だ。大八木監督はいう。

「レベルの高い関東からきたからと、福井を低く見るのは大間違い。神奈川ならベスト8まではある程度計算できますが、福井では公立校でも、力のあるチームが多いんです。そこに気比、福井工大福井、福井商……といった常連校も加わって、一筋縄ではいかない。むろん、"大八木に簡単に勝たせるな"という、地元の対抗意識も強いと思いますよ」

それでも、どこよりも経験を積んだ1期生たちは、着実に力を蓄えていった。12年の10月には学校のそばに雨天練習場が完成し、秋はもう少しで北信越大会出場というところまで健闘した。2期生が入学した13年は、夏秋の1勝ずつにとどまったが、14年、3期生の入学で「3学年がそろったこの年から、本当の野球部になった」(荻原昭人校長)。同時に、学校の裏に待望の寮ができた。食事の仕度も外部に委託し、大八木監督、秀子夫人ともにホッと一息というところだろう。さらに、福井市に隣接する坂井市丸岡に建設中だった専用グラウンドも、夏前に完成。スタッフと部員が1年がかりで天然芝を敷き詰めた外野が美しい。

そして、1期生の集大成だった昨年夏、のちに甲子園でベスト4入りする敦賀気比をヒヤッとさせるわけだ。「甲子園で勝った大阪桐蔭以外、昨年の気比をあそこまで追い詰めたチームのはウチだけ」(大八木監督)という旧チームから、エース・北田悠馬ら、ベンチ入りメンバーが6人残った昨秋は、3位決定戦で春江工・坂井を下して初めての北信越大会に出場。北田の腰痛などもあり、中越(新潟)に初戦負けしたが、甲子園への階段は、順調に上がっている。大八木監督はいう。

「3年で、よくここまできた。あと一踏ん張りです。短期間である程度の成績を残せたのは、野球の技術もそうですけど、みんな準備がしっかりできること。寝食をともにしてきて、それは感じます。学校や寮生活という自分の身のまわりをきちんとするには、考えて、準備することが効率的で、それは考える野球にも通じるんです」

心残りがあるとしたら、恩師であり仲人の原貢氏が14年5月に逝去し、「完成したグラウンドを見に行くぞ」という言葉が実現しなかったこと。公式戦4連敗中の敦賀気比を倒し、甲子園出場を果たすことが、せめてもの恩返しになるはずだ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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