わが国初の紙幣、「山田羽書」とはどのようなものだったのか
本年の7月3日から新しい紙幣に切り替わる。1万円札は渋沢栄一、5千円札は津田梅子、千円札は北里柴三郎である。物心がついたとき、聖徳太子、伊藤博文、岩倉具視が紙幣で使われていたので隔世の感がある。ところで、「山田羽書」という紙幣をご存じだろうか。
日本で最初の貨幣といえば、683年に作られた富本銭である。708年の和同開珎が長らくわが国で最古と言われてきたが、その座を富本銭に譲った。ところが、中世になると、国産の貨幣が使われなくなり、中国から輸入されたものが流通することになった。
中世には、紙幣があったといわれている。『建武記』によると、建武元年(1334)に内裏の造営資金を捻出するため、後醍醐天皇が楮幣を発行したという。ただ残念なことに、楮幣の現物は残っておらず、真相は闇の中というところであろうか。
実は、伊勢国に紙幣の元祖があった。それが「山田羽書」である。伊勢では古くから商人が活発に商業を行っており、とりわけ伊勢神宮(三重県伊勢市)の門前町では大変な賑わいを見せていた。しかし、いうまでもなく貨幣は非常に重たいうえに、持ち運びが不便だった。その克服が大きな課題だったといえよう。
そこで目を付けたのが、伊勢を拠点にして活動する御師である。商人は為替の一種として「山田羽書」を発行し、それを貨幣の代わりにしていた。その時期は、おおむね室町期のことと考えられており、「山田羽書」の原型とされている。
17世紀の初頭になると、山田の商人たちは紙に金額を書き、預かり手形として発行した。これが本格的な「山田羽書」のはじまりといわれている。当初、「山田羽書」は一部の者の間で流通したが、やがて山田全体へ広がった。「山田羽書」は江戸幕府が発行する丁銀や小判との引き換えが約束されていたので、信用度が高かったのである。
その広がりはついに山田の枠を超え、松坂・射和・丹生・白子・一身田等でも「羽書」が発行されるようになる。「羽書」は藩札のルーツとなり、江戸幕府の貨幣流通の政策により藩札が使用を禁止されても、「山田羽書」だけは特別に許可された。こうして「山田羽書」は、幕末まで使用されたのである。「山田羽書」の発行が停止されたのは、明治3年(1870)のことである。