大谷翔平も背番号「42」のユニフォームを着てマウンドへ
4月15日(日本時間4月16日)、大谷翔平(ロサンゼルス・エンジェルス)は背番号「17」ではなく、「42」のユニフォームを着てマウンドに上がる。この日は「ジャッキー・ロビンソン・デー」だ。全球団の選手、監督、コーチが「42」のユニフォームを着用する。
1947年4月15日の開幕戦で、ロビンソンはブルックリン・ドジャースの「2番・一塁」として、メジャーリーグにデビューした。史上初の黒人(アフリカン・アメリカン)選手ではないものの、ロビンソンは「カラー・バリア(人種の壁)」を打ち破った。
ロビンソンの背番号「42」は、1997年4月15日に全球団の永久欠番とされた。ただ、その時点で「42」だった選手は、以降も使用することができた。彼らのうち、ニューヨーク・ヤンキースのマリアーノ・リベラは、2013年まで投げ続けた。
また、モー・ボーンは2003年を最後にユニフォームを脱ぐまでに、3球団で背番号「42」を使用した。ボストン・レッドソックス、ロサンゼルス・エンジェルス(ボーンの在籍時はアナハイム・エンジェルス)、ニューヨーク・メッツのそれぞれで、ボーンは球団最後の「42」となった。
なお、ドジャースで最後に背番号「42」を使用したのは、ロビンソンではない。1956年限りでロビンソンが引退した後、1972年に永久欠番となるまでに1人だけ、1969年にレイ・ラムが「42」のユニフォームを着てプレーした。ラムは8月1日にデビューし、対戦した最初の打者、後にヤンキースなどで監督を務めるジョー・トーリに二塁打を打たれた。