「雑談+相談」=ザッソウでイノベーションを起こせ!【倉貫義人×倉重公太朗】第1回
倉重:倉重公太朗「労働法の正義を考えよう」というヤフーニュース個人で連載をやっておりまして、「働く」にまつわるお話をいろいろな方に伺うということをやっていまして、今回はソニックガーデン社長の倉貫さんにお越しいただいています。最近の新著の『ホウレンソウに代わる「雑談+相談」ザッソウ 結果を出すチームの習慣』という本も書かれていますけれども、今日は生産性の高いチーム作りについて、お話を伺っていきたいと思います。まず、簡単に自己紹介をお願いできますでしょうか。
倉貫:私は今、株式会社ソニックガーデンという会社を経営しています。元々、ソニックガーデンという会社は、大きなSIer企業の中で社内ベンチャーとして立ち上がったもので、それをMBO、自分で買い取る形で独立をしました。2011年に独立したので、今、9年目の会社を経営している人間です。私自身は元々プログラマで、いわゆるシステムエンジニアでした。コンピューターを扱って、プログラムを作る仕事が大好きで、プログラムを作る人たちがもっと働きやすいようになればいいと思い、どうすればプログラマの人たちが働きやすい環境が作れるかを突き詰めていったら、最終的には自分で会社をやるのがいいだろうということになりました。
倉重:確かに自分で作った方が早いかもしれないですね。
倉貫:僕自身はプログラムを作ることも大好きだし、よく「心はプログラマ、仕事は経営者」といっています。本当はプログラマの気持ちのままプログラマでいたいのに、なぜか経営をしているという立場です。
倉重:やらせてくれないですか。実際、現場に入ることもありますか。
倉貫:現場に入ることはもうないです。
倉重:さすがにもうないですか。
倉貫:なので、今は趣味でプログラマをやっています。
倉重:倉貫さんはキャリア的には最初はベンチャーですか。学生のときから始めたのですか。
倉貫:そうです。プログラムで仕事を始めたのは、もう学生時代です。
倉重:アルバイトですか。
倉貫:そうです。アルバイトです。それこそ、大学からアルバイトを始めた口なのですが、最初は大体、ウェイトレスなどをやるではないですか。僕は何を思ったのか、すし屋でアルバイトを始めてしまいました。
倉重:すし屋ですか。全く違いますね。
倉貫:飲食店で、すし屋でアルバイトを始めたのですが、全く向いていなかったです。
倉重:失敗しましたか。
倉貫:筋は良かったのですが。
倉重:握っていたのですか。
倉貫:いえ、すしと天ぷらの店で、カウンターで天ぷらを揚げる直前までは行けたのですが、待てよと。
倉重:揚げるのは10年かかると言いますからね。
倉貫:俺は、ここで何をしているのだろうと。
倉重:何がしたいのかと。
倉貫:少し違うと思って、家庭教師のアルバイトもしてみたのですが、そういうのも向いていないと分かり、働くというのは難しいと思いました。アルバイトは時給制で、働いた時間分のお金がもらえます。苦しい時間を何時間か我慢するとお金になるという発想でいたのですが、それが僕には向いていなかったのです。
倉重:それが分かったからよかったですね。
倉貫:多分、これでは社会に出られないと思って不安だったのですが、先輩か誰かにプログラムのアルバイトを紹介してもらいました。プログラムを書くのは、僕からすると趣味でやっていたことです。
倉重:スキルはあったのですね。
倉貫:もう小学生からずっとプログラムをやっていました。
倉重:小学生からですか。
倉貫:プログラムなんて遊びでやっていたものでアルバイトさせてもらえるのは最高だと思って始めたら、それのまた何がよかったかというと、時給ではなかったのです。
倉重:案件ごとに。
倉貫:そうです。いわゆる、昔のプログラムを新しいものに乗せ換えるような仕事でした。難しいプログラムも、簡単なプログラムも1本1万というような給与体系で。
倉重:何とも、どんぶりもいいところですね。
倉貫:どんぶりもいいところです。発注する側も分かっていないので。案件は楽勝のものもあれば、難しいものもありました。時給制ではないことによって、生産性を上げようとモチベーションが上があがりましたね。
倉重:さっさと終わらせたほうが得だと。
倉貫:しかも、楽しいし。
倉重:それはいいですね。
倉貫:これはもう今までの、苦しいから時間分のお金をもらっていたことからの真逆でした。仕事とはつらいものではないのだという、僕の頭の中の切り替えが起きたのがそこでした。
倉重:仕事観の根本で、それは今にも通じるものがありますね。
倉貫:まさにそうです。
倉重:それをもう大学時代に形成されたのですね。
倉貫:そうです。もうそれ以来、まともに仕事ができなくなってしまいました。
倉重:でも、一応、新卒ではきちんと、きちんとと言ったらあれですが、大手の企業に就職はしたのですね。
倉貫:そうです。就職は99年でしたので、就職氷河期でした。
倉重:真っ最中ですね。
倉貫:当時は研究室の仲間と一緒にゲームをインターネットに公開して、それが大ヒットして、それをそのまま会社にするかという話もあったのですが、大企業に就職をするチャンスはこの先あるのかと考えました。就職氷河期の時期は、大企業に入り込むチャンスというのは新卒カードを使うしかないと思ったのです。
倉重:1回やってみるかと。
倉貫:駄目だったら戻ってくればいいと思って、入ったのが大手の企業だったのです。
倉重:大手のSI系でしたかね。
倉貫:独立系のSIerに初めて新卒で入りました。その会社は日本のシステム会社の中では、技術が強いと言われている会社だったので、僕も入社しました。しかし1999年ぐらいに、ちょうど日本のシステム開発業界全体が、開発している場合ではないという空気感になったのです。なぜかと言うと、開発ばかりしていると、人手ばかりかかって、あまり儲からないからです。だから、開発は中国やベトナムに出して、自分たちはマネジメントしていくことで、利益が出ていくという構造にするんだとシステム会社がこぞって言い出しました。新卒で入った会社も、入社式か、入社して次の何かぐらいで、社長が今までは技術でいっていましたが、これからはマネジメントの会社にしますと言い出しました。
倉重:俺は何しに来たのかと。
倉貫:技術がしたくて入ったのです。
倉重:話が違うではないかと。
倉貫:周りの同期を見ても、コンピューターをやりたくて入った人よりも、当時、SEは花形だったので、それに憧れて入った人たちばかりで、僕は異色だったのです。同期が200人ぐらいいた中で、プログラムを学生のときからやっていたのは、僕かもう1人くらいしかいないという状態でした。
倉重:そんなに少ないですか。
倉貫:やばいと思いましたが、そこからスタートしました。
倉重:最初はその大きな会社の中で何をやっていたのですか。
倉貫:普通に現場のシステム開発ですが、プログラムができる若者が入ると、大体、炎上案件に放り込まれて、火消しをやらされました。
倉重:いきなりですか。
倉貫:使い勝手がいいのです。即戦力ではあるし、いわゆる、上流のことは分からないのだけれども、現場でプログラムはできるので、プログラムを書けと。
倉重:ああしろ、こうしろということを言いやすいと。
倉貫:腕はあるので、そういう仕事をやっていました。そこそこ自分でも腕はあると思っていたので、炎上案件などに入って、いわゆる、鎮火活動にいそしむのですが、非常に大きなプロジェクトに入ると何ともならないわけです。
倉重:要するに1人でできることが限られているということですか。
倉貫:そうです。言ってみたら、自分はガンダム世代なので、自分はアムロだと思っているのです。
倉重:なるほど。俺が戦況をひっくり返すのだと。
倉貫:ニュータイプが入れば、炎上しているプロジェクトも鎮火できるだろうと思ったのですが、1人では何ともならないのです。数十億などの案件に1人の若造が入ったところで何ともならないのです。
倉重:全体像も見えないですしね。
倉貫:本当にそうなのです。チームの力というか、自分のプログラムや腕だけではない方法で何とか解決しないと、やっていけないとその辺で考えたのです。
倉重:その会社には最初の何年間いらっしゃったのですか。
倉貫:そのままずっといて、トータル13~14年です。
倉重:13~14年いらっしゃって、だんだん人を率いる立場にもなっていって、そこの中で、今の話に通じると思いますけれども、組織というかチームに対する考え方のようなものの経験をされてきたのですね。
倉貫:そうです。
倉重:今ではザッソウして、チームの雰囲気を作っていらっしゃいますけれども、最初からそれができていたわけではないと思うので、逆に失敗しながら築いてきたと思うのですが、その辺のエピソードをお願いできますか。
倉貫:何だかんだ、その会社に長くずっといて、最終的にはどうやっていこうかというところで、やはり、自分でビジネスを立ち上げたいと思いました。ビジネスを立ち上げるにはどうすればいいか、当時の社長と話をして、社内ベンチャーという新しい制度を作っていただきました。そこで社長直轄で好きな予算と決裁権をもらって好きにやっていきましょうとなったのです。ただ、新規事業を立ち上げるというのは、やはりすごく難しくて、上場企業なのできちんと事業計画書を立てて、見せて、役員会で決裁の通った事業計画書どおりに頑張ったのですが、全く売れないのです。
倉重:そうだったのですか。
倉貫:本当に全然売れなかったです。プロダクト自身は、自分で作ったプロダクトなのでいいものだと思っていました。
倉重:自信もあったでしょう。
倉貫:自信もあったのですが、事業計画書は、今月2件契約、その次に何件契約というようなそろばんを書くのですが、そのとおりに商売がうまくいったら、みんな苦労はしないという話です。それまでの、ものを作るシステムを作るなど決まったものを作るお仕事は、作ればそれでゴールなのでいいのですが、お客さんに売る、今までお客さんではなかった人にお客さんになってもらうということは、こちらがコントロールできないのです。
倉重:確かに、それはそうですね。
倉貫:特に新規事業の場合、何が売れるか分からないのです。自分の商売はいいと思って、ずっと売り続けても、全然売れないのです。これはどうしたものかと。赤字がずっと続くし、役員会で呼ばれるたびにどうしているのかと言われて、どうしているのかと言われても売れないし、どうしようかと思って、にっちもさっちもいかなくなりました。
倉重:チームの雰囲気も最悪です。
倉貫:最悪です。僕自身は事業計画を作った人間なので、みんなをどう動かすか、どう営業に生かせるかと、営業のスクリプトを考えるということをやっていたのですが、自分の考えたとおりにやっても、うまくいかないのです。困ったので、営業に行ってくれているメンバーに、「もう困りました。俺が考えているだけでは、何ともならないので、どうしたらいいか教えてくれませんか」と相談しました。
倉重:相談してみたのですね。
倉貫:相談をして、現場は現場で、やはりこのやり方のままではうまくいかないと感じてはいたのですが、なかなか僕に言う機会もなかったのです。そこでざっくばらんに話をしていくと、商品自体はいいけれども、BtoB、社内向けのシステムなので、担当者の方が社内にどう展開するのか、そこが一番難しいので、商品よりもお客さんの中で展開してくれるところをサポートしたほうが、本当はビジネスになるのではないかと。
そのとき、商売になるかどうか分からないけれども、とても熱意のある担当者の方がいるので、その人を応援したいと。契約に繋がるかどうかは分からないけれど、担当者の方はすごく熱意があるから展開のサポートをしたいと現場から相談されました。こちらからすると、無駄なコストになるかもしれないとも思ったのですが、やけくそでいいではないかと言って、やってもらいました。やってもらったら、なんとそこが大口のお客さんになって、新規事業としてそれなりの事例が出来上がりました。
そこから、徐々にチームワークができました。相談をすることも、されることもない状態で、ただ効率を追求して、計画どおりに進めようとしてもうまくいかなかったのが、相談をして一番現場感を知っている本人たちが、知っているとおりにやったら、実はうまくいくのです。
倉重:そこで気付いたわけですね。それまでは、チームを引っ張っていく立場として、数字を上げよう、あるいは効率的にやろう、目標を管理して数字を達成するという思考だったわけですか。それから、自分の弱みをさらけ出して、同じレベルで相談してみたら、うまく回り出したという話ですね。
倉貫:そうです。
倉重:それで、今、現在は、そこで始めた新規事業が独立化して、その法人を買い取って、今やられているということですね。次回はいよいよザッソウのお話に入ります。
対談協力:倉貫 義人(くらぬき よしひと)
株式会社ソニックガーデンの創業者で代表取締役社長。「心はプログラマ、仕事は経営者」をモットーに、ソニックガーデンの掲げるビジョン達成のための経営に取り組んでいる。
略歴
1974年京都生まれ。1999年立命館大学大学院を卒業し、TIS(旧 東洋情報システム)に入社。2003年に同社の基盤技術センターの立ち上げに参画。2005年に社内SNS「SKIP」の開発と社内展開、その後オープンソース化を行う。2009年にSKIP事業を専門で行う社内ベンチャー「SonicGarden」を立ち上げる。2011年にTIS株式会社からのMBOを行い、株式会社ソニックガーデンの創業を行う。