生存者はわずか12人、宮古島島民遭難事件
1871年11月8日、台湾に漂着した宮古島の島民たちが、原住民に殺されました。
この事件は大きな悲劇として今でも語り継がれており、さらに日本史の大きな転換点ともなったのです。
この記事では宮古島島民遭難事件の経緯について紹介していきます。
生存者はわずか12人
台湾の南東岸に漂着した宮古船の生存者たちは、言葉も通じず、現地の住民たちとの関係が次第に緊迫していく中で、地元の鄧天保や林阿九、そして有力者の楊友旺らの保護を受けることとなりました。
彼らは危険な状況において、生存者を匿い、現地の住民との対立を避けるため、多大な出費も惜しまなかったといいます。
漂着者たちが逃げ込んだ場所には、50体以上の首のない遺体が放置されており、緊迫した状況が続きました。
楊友旺は生存者12名を自宅に40日間匿い、食事を与え、その後、長男や甥を同行させて台湾府城へ送り届けたのです。
この一連の出来事は、台湾を管轄していた福建地方官から清朝政府へ報告され、最終的に生存者は琉球に送り返される手筈が整えられました。彼らは福州経由で琉球に戻り、1872年6月に那覇へ帰着したのです。
楊友旺たちは、犠牲者の供養として現場に墓を建て、頭蓋骨以外の遺体を埋葬したといいます。
後に統埔の地に新たに墓が建てられ、台湾出兵時には日本軍が記念碑を設置したが、適切な石材が見つからず、中国本土から取り寄せたという逸話が残っているのです。
頭蓋骨は、残念ながら日本軍の捜索でもすべては見つからなかったものの、44個が運搬中に発見され、後に日本へ持ち帰られました。
原因は原住民の風習?
台湾原住民の間には、敵対する部族の首を狩る「出草」という風習があり、これが今回の事件の背景にあったとされます。
この習慣は、首級を集めることで部族の繁栄を示し、威信を高める儀式的な意味合いを持っていたと考えられているのです。
漂着者たちが襲撃を受けた集落が特定の部族であったかははっきりしていないものの、首狩り自体が行われたのは事実です。
興味深いことに、この時の生存者の証言や、その後の調査によると、首を切られた者たちの遺体からは人肉を食べた痕跡がなかったといいます。
首狩りは儀式的なものであり、単に恐怖を植え付けるための行為であった可能性が高いです。
歴史家の大浜郁子は、宮古島の漂流譚が影響を与え、漂着者たちが原住民の集落から逃亡を図った要因になったと指摘しています。
また、人類学者の伊能嘉矩は、台湾東部のアミ族の集落がこの事件の舞台であった可能性を示唆しているのです。
事件後、台湾に派遣された日本軍は、首級の行方を追い、地元の頭目温朱雷に協力を仰ぎました。
温は首狩りの現場から首級を盗み出し、最終的に日本軍へ引き渡したのです。
この大胆な行為により温は報酬を得たものの、その背後には、台湾原住民の間にわずかながら残る抵抗の意志があったのかもしれません。
この事件の背景には、台湾の文化的な風習と、清朝政府の緩やかな支配体制、さらには日本との関係が絡み合い、複雑な人間模様が浮かび上がっています。
首狩りという恐ろしい風習があったにもかかわらず、事件を通じて生存者を保護し、救おうとした台湾の人々の努力は、異なる文化がぶつかり合う中での人間の温かさを物語っているように感じられます。
参考文献
大浜郁子(2006)「「加害の元凶は牡丹社蕃に非ず」-「牡丹社事件」からみる沖縄と台湾」『20世紀研究』第7巻p.79-102
関連記事