絶望を覆せ!遠く離れた国々で絶体絶命の戦いに奔走した2人の英雄エピソードとは
1836年に起きたテキサス(現・アメリカ合衆国の一州)の独立戦争「アラモの戦い」と1575年に日本で起こった「長篠戦い」は、まったく別の国で勃発したにもかかわらず、意外な共通点がありました。
このことについては、愛知県岡崎市出身の世界的地理学者・志賀重昴も高い関心を寄せ、のちに石碑まで建てています。
アラモの戦いとは、アメリカ人が米国史を語る上で欠かせない歴史的にも重要な激戦のひとつです。
時代も国も異なる2つの戦争の共通点とは一体何だったのでしょうか。
・テキサスの独立宣言とメキシコの独裁者
1835年のテキサスはアメリカ合衆国ではなく、アメリカ大陸でほとんどの領土を有する「メキシコ」の支配下にありました。
その当時メキシコ大統領として君臨していたのが、アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ・ペレス・デ・レブロン(以下、サンタ・アナ)。
有能な軍人として知られた一方、国民に圧政を強いる独裁政治家として批判されることもある人物です。
陸軍の英雄だった彼は軍事力に心酔しており、将軍と政治家の両方を担当した時期にも、軍の栄光に執着していたようです。
そんなサンタ・アナの独裁状態に声をあげたのが、テキサスの人々でした。
そして、彼らはテキサスの独立を宣言し、テキサス革命とよばれる戦争を引き起こしたのです。
・全員が死亡…アラモの戦い
テキサス革命中の1836年2月23日〜同年3月6日、キリスト教の布教目的で建設された伝道所・アラモの砦を中心に巻き起こった戦争が「アラモの戦い」です。
アラモの砦防衛戦を指揮した25歳のトレビス青年は、革命軍150人での立て籠りを実行します。
しかし、サンタ・アナが派遣したメキシコ軍は5000人と、約30倍もの戦力差。
そのため包囲から約10日前後の攻撃で、アラモ側の食料・弾薬は底を尽きてしまいます。
この戦況に危機を感じたボナム青年は、敵勢力の包囲網を掻い潜って友軍ファンニンのもとへと走りました。
しかし、友軍ファンニンも敵軍に包囲されており、援軍を得られないことを知ったボナム青年はアラモの砦で仲間たちと戦うことを選択。13日にわたる攻防の結果、アラモ側は全員が戦死してしまいます。
・長篠の戦い
1575年、奥平家は長篠城で籠城戦を繰り広げていました。
天然要塞として知られる長篠城ですが、味方300人に対して敵の武田軍は15,000人と絶望的な戦力差に落城も待ったなしの状況です。
まさにアラモの砦状態。この状況を変えるべく、鳥居強右衛門は徳川家康の居る岡崎城へと駆けつけました。
鳥居強右衛門が岡崎城に到着したとき、城内には徳川家康と織田信長が居合わせており、援軍を約束してくれます。
岡崎城での休暇を提案された鳥居強右衛門でしたが、少しでも早く援軍の知らせを届けたいと長篠城に戻ることを決意。しかし、長篠城に到着する目前で敵兵にみつかり、囚われの身となってしまいます。
結果的に援軍が到着して長篠城は持ち堪えたものの、それまでに鳥居強右衛門は長篠城からよく見える場所で串刺しにされてしまいました。
・共通点
アラモの戦いと長篠の戦いの共通点は、仲間の窮地を救うため、自己犠牲を賭して援軍を乞うために駆けた英雄の存在とその死です。
この共通点に関心を抱いた地理学者・志賀重昴は、アラモの砦跡に石碑を建てています。
そのお礼として、アメリカ合衆国テキサス州の都市・サンアントニオ市より、岡崎城跡へ「アラモの碑」が贈られました。
興味を感じた方は岡崎城へ足を運んでみてください。