“落語の明日”見つめ続けた米朝さん
桂米朝さんが亡くなった。命に限りはある。もちろん、いつかはこの日が来ると覚悟はしていた。ただ、それでも、それでも、関係者からの電話がかかってくる度に、明らかに体の芯が震えた。
米朝さんにインタビューをしたのは2003年の春。1999年にデイリースポーツに入社し、演芸担当記者となってから、常に頭にあったのは、当時、スポーツ紙でロングインタビューに応えることはすっかりなくなっていた米朝さんに話を聞くことだった。
どれだけ先かは分からない。道がつながっているのかも分からない。ただ、動かずにはいられない。そんな思いで入社後スタートさせたのが上方落語の噺家(はなしか)さんを毎週取材するインタビュー企画「上方落語大図鑑」だった。
若手からベテランさんにいたるまで、とにかくインタビューを続けた。回を重ね、人によっては重複して登場してもらうことも生じだした03年、米朝さんの事務所の方から、米朝さんのインタビューの打診がきた。道はつながっていた。
インタビュー場所となったのは大阪・ホテル阪急インターナショナルのジュニアスイートルーム。地下の駐車場から部屋まで、米朝さんをアテンドするのもこちらの役目だった。
駐車場から部屋へと続くエレベーター。米朝さんと二人きりになった。とんでもなく優しい声で、米朝さんが話しかけてきた。「あれは、全部、お一人の筆ですか?」。
いきなりの問いかけに戸惑いながらも「はい。連載の担当は僕だけですので、全部僕が取材をして書かせていただいてます」と答えると、さらに優しい声で「えらい若いもんまで取り上げていただいて、本当に、ありがとうございます」と孫のような歳の新米記者に、深々と頭を下げた。
エレベーターが地下から部屋のあるフロアに到着するまで、多く見積もっても数十秒。しかし、米朝さんがいかに“落語の明日”を考えていたのかを痛感した数十秒でもあった。
時を経て今月6日、“ダンソン”でブレイク中のお笑いコンビ「バンビーノ」にインタビューをした。メンバーの藤田裕樹の叔父は落語家の桂きん枝。芸の世界の大先輩でもある叔父さんから教わったことを尋ねると、すぐさま答えが返ってきた。
「あまりお笑いのことは話さないんですけど、一つだけ言われたことがあります。『とにかく桂米朝師匠の落語を聞け。そこに全てのお笑いの答えがあるから』と」。
ジャンルを超え、時代を超え、本物は受け継がれる。
今は、ありったけの思いを込めて、ただただ手を合わせるしかない。合掌。