Yahoo!ニュース

ウィル・スミス、誕生日を迎える。“平手打ち事件”から半年、彼の過去とこれから

猿渡由紀L.A.在住映画ジャーナリスト
平手打ち事件の後、アフターパーティに出席したウィル・スミス(写真:REX/アフロ)

 9月25日は、ウィル・スミスの誕生日。現地時間のこの日で、スミスは54歳になる。7月にインスタグラムで心境を告白した以外、公に顔を出さず、静かに暮らしてきたスミスだが、この誕生日も家族や親しい友達だけで和やかに祝うのだろうか。

 オスカー授賞式での平手打ち事件からちょうど半年が経つが、今思い出しても、あの出来事は衝撃だった。ハリウッドで最も気品高いイベントで、全世界が見守る中、舞台の上で大スターが別のスターに暴力を振るうなんて、前代未聞だ。

 これをやったのが誰であってもショックだったのは間違いないが、明るくて楽しいナイスガイのイメージで売ってきたスミスだったことで、衝撃はなおさら増した。スミスもそのことは誰よりも自覚しており、7月に投稿したインスタグラムのメッセージでも、「僕は人をがっかりさせるのが大嫌い。だから辛いです。人が自分に対して持っていたイメージを裏切ってしまったということは、心理的にも、感情的にも辛い」と述べている。

 だが、スミスの人生で、それまで一度も暗いことが起こらなかったというわけではない。スミスの父は常に母に暴力を振るったし、スミス自身も、フィラデルフィアで過ごした若かりし日には、暴力沙汰に巻き込まれているのだ。

警察のお世話になり、マフィアとも絡んだ若い頃

 たとえば、80年代末、ラップミュージシャンとして人気を集め始めた頃、高校時代の経験について歌う彼の音楽について「ソフトすぎる」「本物のラップではない」という批判も出た。そう言われるたびにスミスはユーモアで返していたが、ある時、ボディガードで親友のチャーリー・マックに、「その馬鹿野郎の顔を殴れ。そうすれば次は何も言ってこないよ」と言われ、スミスはそれに従ったのだ。「僕はその通りにやることにした。誰かが馬鹿なことを言ってきたら、そいつの顔を殴る(そしてすぐにチャーリーの後ろに隠れる)」と、スミスは回顧録「WILL」に書いている。

 その後にも、スミスは、数ヶ月間、ほぼ毎週末、誰かと肉体的な喧嘩をする時期があった。警察に逮捕されたこともある。もっとも、その事件で、スミス本人は手を出していない。その出来事が起きたのは、スミスが地元のラジオに生出演している間。スミスに恨みを持つかつてのビジネス関係者が、スミスがこの時間にいると聞いてスタジオに乱入し、マックが相手を大怪我させるほど殴って、スミスとマックは急いで逃げた。しかし、ペンシルバニア州では、犯罪を起こした者が誰かの部下である場合、責任は上の者にいくという法律があるため、刑務所に入れられたのはマックではなくスミスだったのだ。

 スミスが刑務所入りをしたのは金曜日。土日は出してもらえないため、釈放されたのは月曜日になってからだった。それから心配しているであろう母の住む家に行くと、そこではもっと恐ろしいことが待っていたのである。

 ラップミュージシャンとして成功し、大金を稼いで、自分の豪邸を建ててからというもの、スミスは、ジュニア・ブラック・マフィア、通称JBMの男たちとギャンブルを楽しむようになっていた。スミスによれば、「フィラデルフィア都市部のあまり良くない地域出身で、20歳にして100万ドルを稼ぐラッパーになってしまったら、遊べる相手はほかのラッパーか、プロスポーツ選手か、麻薬ディーラーしかいない」。そのJBMのメンバーが、FBIに目をつけられたのだ。そのことを教えてくれたのは、警官になった幼馴染み。幼馴染みによれば、それらのメンバーがスミスの家に出入りする証拠写真もつかんでいるという。

 その幼馴染みに言われるまま、スミスは大急ぎで街を離れることにした。しかし、スミスは、税金未払いで豪邸も車も税務署に差し押さえられ、クレジットカードも止められたばかり。絶望的になったスミスは、親友のひとりバッキーに事情を説明し、現金1万ドルを借りて、ロサンゼルス行きの飛行機に乗った。「この金はできるだけ早く返す」とスミスは約束したが、バッキーはその翌日に死んだ。

ポジティブ思考と努力で自らを成功に導く

 だが、そのような形でロサンゼルスに引っ越してまもなく、スミスはテレビスターとして成功するのである。きっかけは、ワーナー・ブラザース・レコードのエグゼクティブ、ベニー・メディナと知り合ったこと。自分の体験をコメディ番組にしようと思っていたメディナは、スミスに「君、演技はできるのか」と聞いた。演技などしたこともなかったが、「できる」と答えるのがデフォルトのスミスは、そう返事をした。

2001年、「ALI/アリ」のL.A.プレミアに家族と出席したスミス
2001年、「ALI/アリ」のL.A.プレミアに家族と出席したスミス写真:ロイター/アフロ

 すると、番組のプロデューサーであるクインシー・ジョーンズのホームパーティに招かれ、その場でいきなりオーディションをされて、主演に抜擢されたのである。番組は、演技の素人であるスミスに合わせて作られることになり、タイトルも彼のラッパーとしての名前を使って「The Fresh Prince of Bel-Air」になった。

 そうやって俳優の仲間入りをした彼は、より本格的な役者を目指すようになり、映画「私に近い6人の他人」に出演。2001年の「ALI/アリ」では初めてオスカーにノミネートされ、その5年後には「幸せのちから」でも候補入りした。そしてようやく今年、「ドリームプラン」で念願の受賞を果たしたのである。その最高の瞬間を、彼は、自分自身で台無しにしてしまったのだ。

 スミスがやったことに対する批判はアメリカにおいてきわめて強く、アカデミー主催のイベントに10年出入り禁止という制裁は「甘すぎる」との批判もある。それでも、彼のキャリアの未来を心配する声は、ほぼ聞かれない。オスカー授賞式の直後には、彼がかかわっていたいくつかの作品の延期や一旦停止になったが、それらのスタジオは世間の熱が冷めるのを待っているものと思われる。

 実際、今年公開予定だったが、事件を受けて来年に延期されたスミスの主演作「Emancipation」について、Appleは、今年12月に出すかどうか検討しているとの噂もある。アントワン・フークアが監督する、脱走した奴隷についてのこの映画は賞狙いという位置付けで、今作が年内に公開され、スミスが期待された通りの優れた演技を見せれば、本人は出席を許されないにしろ、スミスは早くもオスカーに復帰することになる。

 これ以外にも、以前からスミスがプロデューサーとして製作準備を続けてきている「Brilliance」の監督が決まった。それはつまりプロジェクトが前に進んでいるということだ。スミスが主演を兼任する可能性もあるとのことだが、こちらについては発表されていない。おそらく彼自身も世間の空気をしっかり確認してからと思っているのではないか。

「ヒップホップをキャリアになんかできないからラッパーになんかなってはダメと両親に言われた時、僕はくじけなかった。両親は何もわかっていないと思ったから。テレビのプロデューサーに演技はできるかと聞かれた時、僕は、一度も演技なんてしたことがないのに、できると言った。『そんなに難しいはずはない』と思ったから。映画スタジオが黒人主演の映画は海外の観客に受けないから僕を起用できないと言った時、僕は怒ったというより、こんな奴がどうしてこのような要職につけているのか理解できなかった。人種差別以前に、馬鹿さ加減に驚いたのだ。人は僕に、僕がどうあるべきか言ってくる。それはどれも意味をなさない」と、スミスは回顧録で書く。

 そんなスミスは、きっと近々また我々の前に姿を現す。

L.A.在住映画ジャーナリスト

神戸市出身。上智大学文学部新聞学科卒。女性誌編集者(映画担当)を経て渡米。L.A.をベースに、ハリウッドスター、映画監督のインタビュー記事や、撮影現場レポート記事、ハリウッド事情のコラムを、「ハーパース・バザー日本版」「週刊文春」「シュプール」「キネマ旬報」他の雑誌や新聞、Yahoo、東洋経済オンライン、文春オンライン、ぴあ、シネマトゥデイなどのウェブサイトに寄稿。米放送映画批評家協会(CCA)、米女性映画批評家サークル(WFCC)会員。映画と同じくらい、ヨガと猫を愛する。著書に「ウディ・アレン 追放」(文藝春秋社)。

猿渡由紀の最近の記事