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藤原定子が産んだ敦康親王は、なぜ皇太子になることができなかったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」は、一条天皇の中宮・藤原彰子が敦成親王を産む場面だった。一条天皇には、すでに子の敦康親王がいたが、ついに皇太子になることができなかった。その辺りを考えてみよう。

 長保元年(999)11月7日、一条天皇と中宮の藤原定子との間に誕生したのが敦康親王である。2人にとっては非常にめでたいことだったが、素直に喜ぶことができない事情があった。

 定子の父は、関白を務めた道隆だった。道隆は隆盛を極め、その家柄は中関白家と称された。しかし、道隆が過度の飲酒で亡くなると、弟の道兼があとを継いだが、すぐに病気で亡くなった。

 道隆・道兼兄弟が相次いで亡くなると、伊周(道隆の子)が後継者として有力視されたが、実際に内覧の座を獲得したのは道長(道隆の弟)だった。このことで、伊周は道長と対立するようになった。

 長徳元年(995)の長徳の変により、伊周は弟の隆家とともに失脚した。このときのショックで、定子は発作的に髪を切ってしまい、それは出家とみなされた。その後、誕生したのが敦康親王であるが、出家した定子が産んだので、事情が複雑だった。

 道長は娘の彰子を一条天皇の中宮にすると、一刻も早く後継者たる男子を産むことを願った。その男子が将来、天皇になれば繁栄が続くからである。わざわざ御嶽詣に行ったのは、そういう理由があった。

 その願いがかない、彰子は敦成親王を産んだ。一方で焦ったのは、復権したとはいえ、威勢を失っていた伊周である。伊周は敦成親王が皇太子になると、もはやお先が真っ暗になってしまうという事情があった。

 寛弘8年(1011)、一条天皇は危篤状態になると、生前のうちに三条天皇に譲位した。問題は皇太子に誰を据えるかだった。順番から言えば敦康親王であり、一条天皇もその意向だった。彰子の思いも同じだったという。

 しかし、一条天皇は道長の意向もあり(藤原行成の動きもあった)、敦成親王を皇太子の座に据えることにした。三条天皇は敦成親王を皇太子にしたので、すべては道長の目論見通りとなったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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