巻き返しを期すあるジョッキーが、現在すべきと考えている事とは?
テレビ観戦で騎手に憧れる
「オーダーに応えられていない。結果だけではなくて、負けるにしてもこの負け方なら仕方ないと思ってもらえていないという事だと考えています」
騎手・丸田恭介は最近の自らの成績が奮わない事について、そう語った。
1986年5月20日、北海道の旭川で生を受けた。当時の家族は母と母の妹、母の両親、そして1歳違いの姉。祖父以外は女性ばかりで、競馬とは無縁の家庭だった。
「競馬関連では『サイレンススズカが骨折して競走を中止』というのが初めて耳に飛び込んだニュースでした。翌年にはスペシャルウィークが天皇賞(秋)を勝つ場面をテレビ観戦し、騎手に対し格好良いと思うようになりました」
中学卒業時に競馬学校を受験したが不合格。高校へ通いながら乗馬クラブで乗馬を教わった後、再受験すると難関を突破した。
順調に勝ち星を挙げ、重賞制覇や海外遠征も
「やっと入学出来たけど、成績が悪くて1年留年しました」
4年かけて卒業すると、2007年、美浦・宗像義忠厩舎から騎手デビューを果たした。デビュー年は3勝に終わったものの翌年は31勝。更に翌09年は48勝と何かを掴んだかのように躍進したが、本人はかぶりを振って述懐する。
「周囲の皆さんに助けていただいたお陰でした。技術的にも精神的にもまだまだで、レースで迷惑をかけてしまう事も度々ありました」
実際、1日に2度、騎乗停止処分となる制裁をもらうなど、粗削りな騎乗も目立った。
「後輩が勝ち始めたり、自分の騎乗数が減ったりして焦っていました。でも、そんな自分本意な考え方で馬や関係者に迷惑をかけてはいけないと考え直しました」
具体的には「馬の邪魔をしない乗り方を心掛ける」と、10年にはダンスインザモアを駆って福島記念(GⅢ)を優勝。自身初となる重賞制覇を飾った。
「レース前に(管理する)相沢(郁)先生に『最後方から行かせてください』と頼みました。1度は『そんな競馬で見せ場も作れなかったら面白くないから駄目』と言われたけど『最後に面白くしてみせます!!』とお願いして、最終的には承諾をもらいました」
勿論、当てずっぽうでそう進言したのではなかった。
「跳びの大きな馬だし、前へ行きたい馬もいたので自分のリズムで走らせれば末脚が活きるのでは?と考えたんです」
実際、願った形になり、勝利した。
「ただ、自分に余裕がなくて他の馬を挟んでしまい制裁をもらいました。すっきりした形で勝たないといけないと改めて感じました」
勝ち鞍は安定して40前後。6年目の12年には自己最多となる52勝。14年にはリトルゲルダやダノンレジェンドらで重賞を3勝したが、中でも思い出に残るのはオーストラリアへ遠征したハナズゴールの鞍上を任された事だ。
「勝つ事は出来なかったけど、海外の遠征で乗せてもらえたのは本当に素晴らしい経験でした。騎手をやっている以上、また海外へ行くような馬でチャンスをもらいたいし、そうなった日にはこの時の経験が活きるはずです」
ただ、この頃から勝ち鞍は伸びなくなった。14年の勝利数が26に終わると、その後も20勝前後の成績が続いた。
それでも16年にはソルヴェイグで函館スプリントS(GⅢ)を勝つと、翌17年にはライジングリーズンでフェアリーS(GⅢ)を優勝、18年もメドウラークで七夕賞(GⅢ)を勝つなど、重賞勝ちは記録し続けた。
「ライジングリーズンはピッチ走法でパワーがあるタイプでした。アルテミスS(GⅢ)で大敗(13着)した時点で『フェアリーSまでに立て直そう』と陣営と話し合った上でアエロリットらを破って勝てたので嬉しかったです。奥村(武)厩舎にとっても初めての重賞勝ちだったので、力になれて良かったと思ったし、続くアネモネSではディアドラに勝って、GⅠの桜花賞にも連れて行ってもらえました」
ただ、桜の女王を目指した舞台では丸田自身の「なんとか良い結果にしたいという想いが強過ぎた」ため、気負ってしまったと続ける。
「傾向を沢山調べたり、シミュレーションしたりしたけど、緊張感があってゲートをうまく出せず負けました(8着)。自分としては良い経験になり、感謝しかなかったけど、馬や関係者の皆さんには申し訳ない気持ちでいっぱいになりました」
不振の現在、すべき事とは?
その年の成績が22勝に終わると、翌年は16勝。デビュー年を除くと自身の最低記録を続けて更新する形になってしまった。19年こそ22勝と少し巻き返したかと思えたが、昨年は12勝。
「不甲斐が無いの一語です。負けても仕方がないと認めてもらえるような乗り方を出来ていないという事だと思うので、技術的にも戦略的にも今一度、向上出来るように努めなければいけないと考えています」
そんな中、この春には3年ぶりとなる重賞制覇をマークした。ホウオウイクセルによるフラワーC(GⅢ)だ。
「ひと言で言うと器用な馬です。教えなくてもギアの入りが早くて反応が抜群でした。新馬戦は寝ている感じだったけど、1度使ったら、返し馬からして変わりました。2着だったフェアリーS(GⅢ)は人気こそなかったけど好走出来ると感じたし、1ハロン伸びるフラワーCは更に良い競馬が出来ると思いました」
思惑通り勝ったわけだが、その後の桜花賞では残念ながら9着だった。
「経験した事のない高速馬場で走りに余裕がなくなってしまいました。もっとも、体が増えず、厩舎スタッフも苦労している中でGⅠまで駒を進めたのだから立派だと思います。秋は紫苑S(GⅢ)からと聞いていますので、夏を越して体が増えていれば更に楽しめると信じています」
その頃には丸田自身『40~50勝をしていた頃の勢いが戻っていれば良いね?』と声をかけると、挙措を失うことなく、しっかりとした口調で答えた。
「技術的なモノは勿論、乗り数にしても成績にしても短期間で大きく変わるとは考えていません。トレーニングやレースの予習復習など、やるべき事をきちんとやっていれば、徐々に1頭1頭納得をしてもらえる乗り方が出来るようになると思います。一変を夢見ていたら自分のやるべき事を見失うので、まずは地に足をつけて地道にやっていきます!!」
結果こそついてこなかったもののホウオウイクセルで挑んだ桜花賞の際「ライジングリーズンとの経験が活きた」と語る丸田だが「夢を見るのではなく地道に努力しなければいけない」というのは経験ではなくアプリオリに知っているのだろう。いずれまた以前のような成績を取り戻せる日が来る事を信じて待とう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)