殿様の働き方~1000年先を見据えて地域と共に~【相馬行胤×倉重公太朗】第1回
倉重:「倉重公太朗の労働法の正義を考えよう」では、いろいろな方に働くということを伺っていますが、今回は「殿様」に来ていただいています。殿!よろしくお願いします。
相馬:初めまして。殿様です。
倉重:笑。殿にこんなこと言うのもなんなのですが、簡単に自己紹介を頂けますか。
相馬:私どものふるさとは福島県の浜通りです。2011年の3月11日に東北の大震災がありました。その後原子力発電所の事故があった大熊町、双葉町そこから北に半径50キロ、相馬市まで、また帰宅困難区域に指定された飯舘、葛尾村の一部が私どもの旧相馬藩領です。一時は国土の3分の1が帰宅困難区域に指定されたという、まさに原発どストライクエリアです。
倉重:「国土」というのは相馬藩の。
相馬:相馬藩の国土です。僕がそこの藩主の末裔(まつえい)ということになるので、皆様から殿という愛称でかわいがっていただいています。
倉重:殿、すいません。お名前を頂けますか(笑)。
相馬:名前は相馬行胤(みちたね)といいます。
倉重:相馬行胤さん。今、第何代ということになりますか。
相馬:相馬藩主からで言うと、私が34代目になります。
倉重:34代目当主ということですね。34代前ですと何時代ですか。
相馬:私どもが土地を拝領したのがちょうど鎌倉時代です。以来800年間相馬の土地から一度もお国替えがないという大変珍しい地域です。
倉重:そうですね。大体動いていますものね。
相馬:そうです。
倉重:殿の生い立ちから伺っていきたいと思います。
相馬:殿と呼んでいただいているだけあって、わりといいところの坊ちゃんです。普通に当たり前の生活をしていたのですが、転機が2011年に起こりました。その時点から今まで何不自由なくと言ったら言葉に語弊があるかもしれませんが。
倉重:価値観が変わるような出来事という意味ですか?
相馬:そうですね。今まで経験した苦難は全然苦難ではなく、新しいいろいろな課題点が見えてきたのが2011年の震災でした。
倉重:震災等のお話はまた後で伺いたいのですが、そもそも先代のお父さまは何をやっていらっしゃったのですか。
相馬:私の父は、北海道で牧場業を営んでいました。
倉重:北海道で?相馬ではないのですね。
相馬:北海道です。肉牛の生産や競走馬の育成をやっていました。後半にふるさとの相馬でシイタケの栽培事業を行いました。僕がその事業を継承していました。
倉重:殿は、生まれは相馬市ということでいいんですよね。
相馬:生まれは東京です。
倉重:東京ですか!
相馬:基本的に、もともと殿様は江戸時代時の政府の意向で東京におりましたので…
倉重:参勤交代の?(笑)
相馬:そうです。
倉重:殿が最初に就職したのはどちらですか。
相馬:北海道の父がやっていた牧場です。
倉重:最初からお父さまの牧場に?
相馬:そうです。
倉重:それはそのように自分の中でも決めていたのですか。
相馬:そうですね。やはり田舎が好きで自然が好きというのは昔からです。学生時代に東京(都会)の生活は十分満喫できましたので、田舎に行きたいと。
倉重:殿は、何歳くらいから物心がついて自分が殿様だということを自覚しましたか?
相馬:私は14歳のころから相馬の野馬追(下記URL参照)に出ています。読者の皆さまは、野馬追のことは分からないかもしれませんので後で説明しますが、古くから続く伝統行事です。それに出させていただいているものですから、昔から自分の立場やふるさとというものは感じていました。
倉重:野馬追は旧相馬藩領全て毎年一回やっている、馬がたくさん出てきて甲冑(かっちゅう)を着た人たちが合戦するようなお祭りですよね。
相馬:そうですね。
倉重:殿は総大将として出陣するんですよね。そういうお祭りが今でも、今年もやられているのですね。
相馬:今年もやっています。
倉重:元服が15ですから、14歳から戦場には立っていたと?その野馬追の大将は、代々相馬家が務めてきたということですね。
相馬:そういうことです。
倉重:そういった家柄もあって、働くとか自分の立場とかに対する思いは普通の人と違うのかなと思っていましたが、それはどうでしょうか。
相馬:多感な時期もそうですし、仕事をしていてもそうですが、何かしら甘い誘惑があるじゃないですか。もう少し一歩踏み外してしまうとうまい話がありますよとか、楽しいことが起こるかもしれないよという事には引っ掛かることはなく自重して過ごせました。自分には裏切ってはいけないものがあるということをふるさとが教えてくれました。
倉重:背負っているものがあるということですか。
相馬:それは感じています。
倉重:学生時代は誘惑が多いでしょうが、相馬家の名に恥じないというような?
相馬:そういうことです。それは意識しています。
倉重:最初、お父さまの牧場に入ろうというのは自然とそうなったわけですか。最初から意識していたのですか。
相馬:それは学生時代から思っていました。
倉重:どうしてそうしようと思ったのですか。
相馬:北海道の牧場の生活が好きだったのでしょうね。
倉重:例えば、サラリーマンになって企業に入るとかそういうことは?
相馬:全く考えたことがなかったです。僕のことを雇う企業さんもなかったと思います。
倉重:殿は大学まで東京ですよね?周りは就活とかをするじゃないですか。でも、全くぶれずに?
相馬:一切就活もしていません。
倉重:お父様の牧場では何年くらいお勤めになったのですか。
相馬:2011年までです。というのは、「名に恥じることなく」などと偉そうなことを言っていますが、僕は2011年の震災がきっかけで会社を2つ駄目にしています。先ほど申し上げたとおり、相馬でシイタケ栽培をやっていたときに原発の事故がありました。そうすると、当時はそこで生産したものの販売が厳しいと。これは継続が困難ではなかろうかという判断で、会社をクローズしたことがあります。
最初は、何かトラブルがあったとき、僕はそれを人のせいにしていたわけです。震災がなければとか、どうしてこんな困難の中にあるのに保障もないのだろうとか、全部人のせいにしていたわけです。でも、ふと立ち返ったときに、いや、どんな困難が起きたときにも会社が乗り切るための体力を付けておかなければいけないと思いました。ふるさとが一番苦労して雇用や事業が必要なときに、僕はそれを継続することができなかったというのはずっと自分の能力のなさというか、自分の中の負の財産として常に持っています。今後そのことがないようにということは今でも思い続けていることです。
倉重:震災の前もやられていた事業は、シイタケと、あともう1個あったのですか。
相馬:北海道でやっている牧場です。
倉重:2つ駄目にしてしまったとおっしゃっていたのは、そのどちらも?
相馬:そうです。福島の仕事のほうが大きかったものですから。
倉重:そちらでマイナスが出ると、北海道も危ないと?
相馬:というのもあったし、あと、北海道のほうを粛々とやるというアイデアもあったのですが、そうすると、相馬のことに関して手を付けることができないというか、北海道の事業だけでいっぱいいっぱいになるので、自分の人生を考えたときに、それは思い切ってやめようと思いました。
倉重:やはり相馬家というものがあって、北海道だけというのは自分の中でやはり抵抗があったわけですか。
相馬:はい。あの経験をしたとき、最初は人のせいにしていたり、なぜ自分だけがこんなことになってしまったのだろうと思ったりしたこともありました。でも、周りを見れば、もっとご苦労されている方々は本当に多くおられて、そういう人たちを目の当たりにしたとき、僕の家族はそのとき北海道にいたものですから、家族は残っているし、体は健康そのものだし、逆に言うと、地域にとってはご迷惑を掛けてしまいましたが、なくなったものは仕事だけでした。体は残っているじゃないかと。だったら僕にはまだできることがあるのではないかと思いました。そのような前向きな思いを持つまではなんだかんだと半年以上僕の中でもかかってしまいましたが。
倉重:なるほど…
相馬:ふるさとのことを思っている僕でさえこれだけの期間を要したのだったら、もっとご苦労されている方々は多くおられるのではないかと思っていました。だからこそ、このふるさとのために、それこそ「どげんかせんといかん」という思いで行動しています。
倉重:今さらっとおっしゃいましたが、「ふるさとのためにと普段から思っているこの僕でさえ」というのはすごく重たいなと。そんなことを常々考えている人がどれほどいるかと思います。震災前からですよ。やはり相馬地域に対する思いがもとからおありになったわけじゃないですか。
相馬:僕が相馬で仕事をさせてもらっていた期間は、震災の3~4年前からだったと思います。相馬で1年の半分ほど仕事をさせて頂いたというのは震災のためなのかなと今だったら思いますね。ふるさととより密接な関係を僕に持たせてくれていたというのは、そういったご縁があるのではないかと。
倉重:でも、3.11が発生したときはそんなことは考えられないですよね。
相馬:本当にいろいろなことが起きました。
倉重:今までやっていた事業がなくなって、その後どうしようと思いますよね。
相馬:思いました。
倉重:半年間くらいは考えられずに。その後、今は広島で酪農をやられているということですが、そこにどうつながっていったのですか。
相馬:まず、ふるさとで起きたこの大きな問題を僕はどうすればいいのだろうと思ったときに、課題が山積みで本当に何も答えが見つからなかったです。その事も殿様として大変申し訳ないという思いがありました。そこで先ず僕がやったことは歴史を振り返りました。先ほど申し上げたとおり、相馬というのは800年間一度も国替えがなかった大変珍しい地域です。戦国時代、わが隣国には伊達政宗という強力な大名がいたり、幕府からの改易の命令があり、お国のお取りつぶしがあったり、お世継ぎ問題があったり、それこそその当時飢饉(ききん)の問題があって、国が生きるか死ぬかという、さまざまな課題を先人たちは自分たちの知恵で克服してきたわけです。
倉重:歴代当主が克服してきたと?
相馬:歴代当主といいますか、当主だけではなくて藩全体がその困難を乗り越えてきたという歴史がありました。その当時からしてみると、今回の2011年の3月に起こったことも、大変なことではあります。でも、800年間の中で一番大変だったのか?片手には入るくらい大変かもしれないけれども、果たしてナンバー1なのかと。僕は、そうではないだろうと。というのは、日本が、世界が、私どもに対して救いの手を差し出してくださいました。当時とは状況が違います。今回は本当に多くの皆様からの助けがあったのだったら、決して一番ではないでしょうと。だったら、もっと苦しいことを乗り越えてきたわれわれ(相馬藩)は必ず、この難題を乗り越えられるというのが、僕が本当に感じたことです。
倉重:なんと…それは本当に殿様ならではの視点ですね。
相馬:僕が自信を持って震災のときから言い続けられるのは、よくここの地域で起こってくれたと。というのは、僕らでなければこの困難は乗り越えられないだろうと私は思ったわけです。それは過去の歴史を見れば明らかでしょうと。
大変申し訳ないのですが、私の名前は行胤(みちたね)といいます。相馬藩主28代目に充胤(みちたね)という当主がいました。その方が行ったのが、天保の飢饉のときに、当時の農業コンサルタントだった二宮尊徳の教え、ご仕法というものをトップダウンで相馬藩に取り入れました。そのことが功を奏し、それこそ原発が起こるまでの近代の相馬の文化を支えてきました。
その充胤の名を私は頂きました。
倉重:ご縁がありますね。
相馬:相馬にミチタネという殿様が生まれたときには、災害が起こると。これも歴史が証明してしまったわけです。先代の充胤のときには飢饉が起きました。私のときには東日本大震災が起きました。震災が起きたことで神や仏を恨むでないぞと。僕は、私と共に過ごした時代がそういったことを起こしてしまったのだから、全て恨むのは私を恨みなさいと。でも、僕はふるさとのために、その当時のご仕法のような、当時は平成ですから平成のご仕法を必ず持ってきますと。
それを持ってきて国を挙げてそれを導入すれば、それ以降の1000年の繁栄が築けるじゃないかと。
だったら、今、新たなご仕法を導入することが僕の仕事だと思っているので、震災以降その活動を続けています。それも歴史が証明しています。国を挙げてやれば、それができるのではなかろうかと。
倉重:殿は、震災を目の当たりにしてこういうことになって申し訳ないと、そういう発想になるのですね。
相馬:なります。
倉重:そこは本当に殿様以外、誰もそう思えないと思うのです。
相馬:先ほど申し上げたとおり、僕らは今で言う相馬市から大熊町まで藩を預かっていましたが、もし南にもう少し産業が構築できていれば、原発を誘致する必要もなかったかもしれません。
倉重:なるほど。産業構築から考えておられる訳ですか。
相馬:「たられば」ですが、やはり自分が生きていて、もし私が今努力をしないで、10代後、20代後に「こいつがもう少しやっていれば俺らがこんなに苦労しないで済んだのに」と僕らが思われないように。今まで統治してきた前の殿様たちを恨んでいるわけではないですが、やはり各地域がその当時生き残る方法というものを。やはり1カ所では駄目だと思っていて、広い地域の中で、一つ一つの地域が生き残っていく活動をしないといけないのではないかと僕は今回のことで学びました。
倉重:その地域で起こったことに対する責任は自分にあると思うのですね。
相馬:それは思います。僕だけではないかもしれませんが、相馬家としてできたことはあるのではないかとは思います。
倉重:どんな出来事も、天災はもちろん、人間関係でもそうですよね、いろいろなことがあると、あいつが悪いのだとか、自分はちゃんと評価されていないとか、他人も含めて自分以外のものに責任を求めてしまう人は結構多いのではないかと思います。どういう育ち方をしたらこういう発想になるのかなと思うのですが。
相馬:若いころから野馬追に出させていただいていたということもありますし、やはり基本は相馬が好きなんでしょうね。
倉重:町が好きだし、人が好きだし。
相馬:町が好きだし、人が好きであったところが、本当に変わったというか、何も変わらないところもあります。沿岸部は見るも無残に変わったかもしれませんが、何も変わらないところがある中で、それこそ先ほど国土の3分の1と申し上げましたが、国やアイデンティティーなど、全てがなくなってしまう可能性まで見せつけられたときに、やはりここを自分がどうにかしなければいけないとは思いました。
倉重:誰かに言われてではなく、自分の中から湧き上がってくるものが自然とあったということですね。
対談協力:相馬行胤(そうま みちたね)
NPO法人 相馬救援隊代表理事
福島県相馬双葉地方をフィールドに、伝統文化の振興、教育、エネルギーなどの分野に新しいムーブメントを起こすため、引退競走馬を活用した地域創生プロジェクトに取り組んでいる。「被災地」と呼ばれて久しい故郷は、世界の持続可能性をめぐる課題を解決するリソースとアイディアに溢れ、『相馬野馬追』を代表とする地域の馬事文化を継承しつつ、人々と馬の新しい関係を築き、次世代に託す、そして、地域課題の解決を通じ、世界が抱える課題に寄与するモデルを提供することをミッションとする。