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父はアウシュヴィッツ強制収容所の所長でした それでも父を愛している!独女性衝撃の告白 (その1)

シュピッツナーゲル典子在独ジャーナリスト
ベルリン・ユダヤ人大虐殺を戒める記念碑 (c)norikospitznagel

「父は強制収容所の所長でした。アウシュヴィッツの名を聞くと、頭痛に襲われます」と、語るのは米国在住のインゲブリギット・へスさん(81歳)。これまで口を閉ざしてきた衝撃の過去を告白した。

第二次世界大戦中、アウシュヴィッツ強制収容所に移送されてきたユダヤ人の虐殺を指揮した父「ルドルフ・へス」の名の影で、インゲブリギットさんをはじめ、家族はどのような人生を送ってきたのだろうか。2回にわたってお届けしたい。

楽しい思い出が詰まったアウシュヴィッツでの3年半

インゲブリギットさんは静かに語り始めた。

「子供の頃の思い出といえば、我が家の近くにあった澄みきったソラ川です。川岸でかえるを観察したり、兄や姉たちと一緒に戯れたりと楽しい時間を過ごしました。父が休みの時は家族揃って川沿いで乗馬やピクニックしたことも心に残る思い出です」

そう振り返るインゲブリギットさんの顔が突然曇った。楽しかった少女時代を消し去ってしまう嫌な思いがよみがえったのだ。理由は、ヘス家が住んでいた場所、そして頭痛の原因となっているキーワード「アウシュヴィッツ」だ。

「ソラ川が一気に黒くなりました。強制収容所で虐殺され、火葬されたユダヤ人の灰を川に流したからです」

インゲブリギットさんの深いため息と共に沈黙が続いた。

「父は家では物静かな優しい人でした。子ども達をこよなく愛し、よくソファに一緒にすわり、父子としての時間を満喫しました。子ども達を抱き上げ、キスをしたりと、父は家族をとても大切にした人でした」

「一度だけ、父は猛烈に怒ったのを覚えています。インディアンとカウボーイ遊びのような軽い気持ちで、兄弟で庭で追いかけっこをしていたときです。それがインディアンでもカウボーイでもなく、看守と囚人遊びだっただけ。無邪気な兄弟の戯れだったのですが、その最中に父が偶然帰宅したのです。普段は穏やかな父がそれを見てひどく怒りました。そして『他人に対し激怒したり恨むことは決してしてはいけない』と、私たちを強く叱咤しました」

アウシュヴッツ強制収容所所長としての父の務め

ルドルフ・へスは1934年にナチス親衛隊(SS)に入隊した。ダッハウ、ザクセンハウゼン強制収容所で勤務した後、1940年にアウシュヴィッツ強制収容所所長に任命された。

家族(妻ヘートヴィッヒと5人の子供クラウス、ハイデトラウト、インゲブリギット、ハンス・ユルゲン、アンネグレット)は、アウシュヴィッツ収容所敷地を囲む有刺鉄線の外側に居を構え、ここで3年半過ごした。父ルドルフは自宅から毎日アウシュヴィッツ1(収容所本部)へ通った。

所長在任中、ルドルフはアウシュヴィッツ1とアウシュヴィッツ2(ビルケナウ強制収容所)の拡張工事を指揮した。1941年にはベルリンのハインリッヒ・ヒムラー(SSの全国指導者)から「ユダヤ人抹殺」の命令を受け、蛮行を手がけた。

ルドルフは「この命令には、何か異常で途方もない物があった。しかし私は命令を受けた。そして実行しなければならなかった。ユダヤ人を抹殺する必要があったのかどうかなど、自分の考えを発言することは許されなかった」」と回顧している。

出典:(2)Kommandant in Auschwitz von Rudolf Hoess 186ページより

インゲブリギットさんは、父が一体何をしているのか明確にはわからなかったものの、当時のことを理解できる年齢(7歳)だった。事実を知ってからはその罪の重さに「あってはならなかったこと」と言い、その「あってはならなかったこと」を先導したのが父だったことに今も苦しんでいる。

終戦、そして父は絞首刑に

第二次戦争が終盤になると、父ルドルフは英軍の追跡を逃れ、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州の農家へ隠れた。母と子ども達は、父とは別行動をとり、同州の聖ミヒャエリス教会にあった砂糖工場へ逃げ込んだ。

「子供の私が一番辛かったのは、砂糖工場に住んでいた時でした。英兵達が毎日私たちの元を訪れて、父はどこだと繰り返し大声で詰問したのです」

「ある日、いつものように英兵達が訪れ、母と長男クラウスを別の場所に連れて行きました。英兵はクラウスを別室でひどく殴りつけたのです。隣の部屋から苦痛で悲鳴を上げているクラウスの声を聞き、母はいてもたってもいられなくなり、息子を守るためにとうとう父の居場所を白状しました。

私は恐怖で震えていました。13才ころだったと思います。英兵の叫び声を聞くたびにひどい頭痛に襲われたので、屋外に飛び出し木の下に座り、ただ泣いてばかりいました。涙が乾き泣き止むと頭痛も治まりましたが、この時から偏頭痛が消えないのです」

そして父は、英軍に発見された。その後、米軍に引き渡されたルドルフは、ドイツ・ニュルンベルクで裁かれた。

「ニュルンベルク裁判では、ユダヤ人抹殺を指令したヒムラーの命令を拒否することができたはずだと問われた。また、ユダヤ人抹殺を拒否したければ、ヒムラーに銃を向けることもできたはずだとも。だが、そんな考えは及ばなかった。SS親衛隊に囲まれてヒムラーに面会した。そんな場所でそんな行動はできるはずもなかった。上官の命令=ヒトラーの命令は神聖なるものだったから」

出典:(2)Kommandant in Auschwitz von Rudolf Hoess 186~187ページより

そして、ポーランド政府に引き渡されたルドルフは有罪宣告を受け、1947年4月にアウシュヴィッツ1、クレマトリウム(火葬場)の隣で絞首刑に処された。

「父が家族にあてた最後の手紙は、父の死後、私たちの元に届きました。その手紙には父の考えていたこと、そして家族への思いが刻々と綴ってありました」

「父のしたことは許されないこと、それでも父を愛しています」と、インゲブリギットさんは一言一句をかみしめるように言った。

その2に続く。

この記事の参考記事ならびに文献は以下の3点です。

(1)独シュテルン誌「Mein Vater, der Auschwitz-Kommandant」

(2)Martin Broszat 著「Kommandant in Auschwitz von Rudolf Hoess」

(3)米ワシントンポスト紙「Hiding in N. Virginia, a daughter of Auschwitz」

ワシントンポストと独シュテルンと記述内容が少し異なりますが、ここでは(1)と(2)を中心に抜粋してまとめました。

在独ジャーナリスト

ビジネス、社会・医療・教育・書籍業界・文化や旅をテーマに欧州の情報を発信中。TV 番組制作や独市場調査のリサーチ・コーディネート、展覧会や都市計画視察の企画及び通訳を手がける。ドイツ文化事典共著(丸善出版)国際ジャーナリスト連盟会員

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