雨が降ったら傘を差し出す金融へ
晴れには傘を貸し、雨が降ったら傘を取り上げる、これは、銀行等の融資姿勢を皮肉った譬えとして、昔から使われているものです。企業の業況のいいときには喜んで融資をし、業況が悪化したとたんに融資を引き上げようとする銀行等の傾向については、確かに、金融の社会的機能の面から、批判的に検討する余地がありそうです。
風邪をひいたら、もっと働け、食事も減らせ
晴れには傘を貸し、雨が降ったら傘を取り上げる、というのと同工異曲の譬えに、風邪をひいたら、もっとは働け、食事も減らせ、というのがあります。こちらのほうが、同じ問題を提示するについて、より過激な表現で、わかりやすいように思います。
どのような事業にも、大波小波、景気変動等に伴う業況変化は避けられません。いわば、寒気がする、喉が少し痛いという程度の不振は、常にありますが、それが、風邪になり、肺炎になり、命にかかわる状況にまで至るかどうかは、早期における適切な対応によるわけです。
さて、風邪をひいたら、もっと働け、というのは、金利等の融資条件を債務者不利に変更することです。業況の悪化は、信用状態の悪化を意味するわけですから、銀行等の立場としては、理屈上、金利を上げる等の対応をとらざるを得ないのです。食事を減らす、というのは、同じ理由で、与信総量そのものを削減することです。つまり、晴れのときに貸していた傘を、雨が降ったという理由で、取り上げるほかないということです。
こうした銀行等の行動の背景には、金融規制等の事情から、厳格な資産査定、つまり融資先の信用状況についての厳格な評価が要求されていることがあります。ですから、業況の悪化に応じて、金利を上げたり、融資を回収したりするのは、当然であって、むしろ銀行等の経営の正しいあり方ですらあるのです。
ただし、このような金融対応がとられれば、債務者の企業としては、経営の継続に支障をきたし、業況が一段と悪化するかもしれません。ひき始めの風邪を、肺炎にしてしまう可能性があるのです。それでは、資金を必要としている企業へ、資金を必要としているときに、適切に資金供給するという銀行等の社会的使命に反しはしないか、という疑念もあるわけです。
ここには、銀行等の経営における深刻な矛盾があるようです。しかも、この問題、極めて難しいのです。
亀井静香先生の思い
実は、この難問を解こうとして、かつて、民主党政権下で、銀行等に融資条件等の緩和を義務として課すような法律が作られました。
当時の金融担当大臣の亀井静香先生の強い意思でできた「中小企業金融円滑化法」(正式には「中小企業者等に対する金融の円滑化を図るための臨時措置に関する法律」という長い名前)は、2009年末に成立し、当初、2011年3月末までの時限法であったのですが、結果的には、2013年3月末まで延長されて、そこで失効しました。三年と少し、有効な法律として、存在したわけです。
この法律は、2008年の世界的金融危機をうけた景気後退期において、業況が悪化した中小企業等を救済する政策的目的のもとで、制定されました。主旨は、業況等の客観的基準からすれば、正常な債務者と位置付けることが困難な状況にある企業に対して、銀行等が条件緩和等の措置を行うことを努力目標として定めたものです。
金融の理論、銀行等の経営の健全性の見地、金融規制等の根拠の正当性からすれば、融資条件等を厳しくしなければならない局面において、この法律は、逆に、緩和を求めるものですから、金融規律の根幹を揺るがすものとして、金融界としては、非常に当惑したわけです。
しかし、別の見地からみると、亀井先生の考え方も理解できます。即ち、経済政策の立場からすれば、金融の社会的機能とは、一時的な景気後退期においてこそ積極的な融資姿勢をとることで、更なる景況悪化をくい止め、早期の景気回復に貢献することではないのか、雨が降ったときには、傘を取り上げるのではなく、逆に、傘を差し出すのが使命ではないのか、そうとも考えられるからです。
数字の裏の真実へ
では、この矛盾、解き得ないのか。一つの答えは、債務者の業況を評価する手法の高度化だと思われます。表層的な財務諸表上の数字だけを頼りに評価するときには、融資が困難と思われる企業でも、数字の裏にある諸事情を勘案するときには、融資可能な場合もあり得るのではないかということです。
簡単な例は、二期連続赤字です。商売には浮き沈みがありますから、単年度の赤字転落は、ごく普通にあり得ます。しかし、二期連続赤字となれば、一時的な景気変動の影響か、事業構造に起因する深刻な問題かは、簡単に判断できません。
銀行等の内部統制の問題として、その簡単ではない判断を融資現場に対して要求しなければならないのですから、審査部門等においては、二期連続赤字という数字上の問題点を指摘して、注意喚起することが必要です。しかし、それは二期連続赤字だから融資できないという結論を安直に導くためではないのです。三期目に黒字回復が見込まれるのならば、当然に、融資できるし、融資すべきです。
おそらくは、好意的にみて、亀井先生の問題意識は、そこにあったのです。銀行等は、内部規定の適用を安直に考えすぎているのではないのか、二期連続赤字等の数値指標は、単なる注意喚起のためのものにすぎないのに、そのまま融資判断の基準に使われてしまっているのではないか、そのような疑念が亀井先生には、あったのだと思われます。
ただし、数字上の基準から外れた融資先について、敢えて積極的に融資するということは、銀行等の高度な経営責任においてなされるのでなければ、金融の根幹を支える規律を維持できません。そこに、安易な法律のお墨付きを与えてしまうことは、非常に危険なことであったといわざるを得ません。
「事業性評価に基づく融資等」
この論点は、現在の金融庁が掲げる「事業性評価に基づく融資等」に引き継がれています。ただし、現在の金融庁は、亀井先生の時代から僅か数年を経て、劇的に変貌し、金融行政手法の刷新と高度化を達成しています。
亀井先生のときの金融庁は、法律という規制、即ち、ルールで実現しようとしたのですが、今の金融庁は、全く同じことを、銀行等の経営の自律的な原理原則の確立、即ち、プリンシプルによって実現しようとしているのです。
ルールからプリンシプルへ、規制から自律的改革へ、ミニマムスタンダード(顧客の利益を守るための最低限のこと)の遵守からベストプラクティス(顧客の利益に真に適う最高度のこと)の追求へ、金融庁は、大胆な路線転換を行ったのです。
「事業性評価に基づく融資等」は、この路線転換を象徴する重点施策の一つです。これは、第一に、融資とは、企業の過去の財務諸表上の数値に基づいてなされるものではなくて、企業が具体的に営んでいる事業の評価、即ち、生きた事業活動そのものに基づいてなされるものであること、第二に、現在の事業の評価に基づく融資の先には、事業性、即ち、将来の事業のあり方を評価した融資もあるはずだということを意味しています。
いうまでもなく、「事業性評価に基づく融資等」は、事業への高度な理解を前提にしたうえで、将来の数値を見据えて行うものだけに、過去の数値に基づく与信管理に比較して、銀行等に対し、より高度な能力と統制を求めるものです。つまり、過去の数値に基づく融資等がミニマムスタンダードなら、「事業性評価に基づく融資等」はベストプラクティスの追求です。
ベストプラクティスの追求は、銀行等の経営のプリンシプルに基づいてなされ、故に、当然に、金融規律の維持と金融の社会的機能の発揮は、銀行等自身の厳格な内部統制により、適切に均衡されるべきだということです。
信認関係の成立
「事業性評価に基づく融資等」まで踏み込んでしまうと、もはや、銀行等と債務者との間には、高度な信頼関係の成立を認めないわけにはいきません。
弁護士と依頼人、医師と患者との間の関係のような高度な信頼関係は、フィデューシャリー関係(日本語では信認関係)と呼ばれます。
現在の金融庁は、例えば、投資信託について、投資信託の運用会社および販売会社と、投資家との間に、フィデューシャリー関係の成立を認め、投資信託の運用会社および販売会社に対して、フィデューシャリー・デューティー、即ち、フィデューシャリー関係に基づく高度な義務の徹底を求めています。
さすがの金融庁も、銀行等と債務者との間に、フィデューシャリー関係ほどの高度な信認関係を認めるものではないでしょうが、金融行政全体の理念的整合性からは、一定の信認関係の成立を認めざるを得ないと思われます。つまり、銀行等の債務者に対するコミットメント、即ち、一定の条件のもとでの支援の確約、雨が降ったら傘を貸すという確約です。
もともと、債務者の業況を正確に把握しておかない限り、つまり、債務者との間で情報が対称的でない限り、銀行等としては、適切な対応がとれないわけですが、実は、信認関係の成立が必要なのは、情報を対称的にするためなのです。
このことは、医師と患者の関係を考えれば、すぐにわかることです。患者は、自分の身体の状況について、包み隠さずに、医師に伝えます。それは、そうすることで、医師の義務として、適切に処置されことが確約されているからです。
さて、債務者は、少し風邪気味だとして、その症状を、包み隠さずに、銀行等に伝えるでしょうか。伝えることで融資条件等が不利になることが予想されれば、逆に、隠そうとするでしょう。その結果、銀行等としても、債務者と協力して早期に問題解決を図る機会を失い、肺炎に至らしめるということにもなりかねません。そうなれば、対応策も限られ、銀行等も債務者も、ともに不幸になるわけです。
それに対して、支援が確約されているのであれば、債務者としては、早期に病状を銀行等に包み隠さず伝え、問題解決を図ろうとするでしょう。早期であれば、一般に、多様な対応が可能なはずなので、なんとか困難を脱却し、銀行等も債務者も、ともに幸せになれるわけです。
「コミットメント宣言」
ならば、銀行等は、支援の確約を宣言しなければなりません。
今の金融行政において、フィデューシャリー・デューティーは、ルールではなくて、投資運用業者や投資信託の販売会社等、資産運用に携わるもののプリンシプルの問題です。故に、各社の自律的な自主改革によって、実現されるものです。
実際、現時点で、四つの投資運用業者が「フィデューシャリー宣言」を公表しています。これは、フィデューシャリー・デューティーの履行を顧客に確約するものですが、裏には、その確約の履行のための厳格な内部規則が制定されているので、金融庁としては、各社の内部統制を監視することで、フィデューシャリー・デューティーを徹底できるようになっています。
同様な手法を銀行等と債務者の間に適用すれば、銀行等が、一定範囲の重点顧客に対して、「コミットメント宣言」を行い、状況に応じた様々な支援を確約し、その確約を履行するための内部統制を確立することになります。今後、銀行等の間には、こうした動きが広がっていくのではないでしょうか。
自主的宣言型の改革の場合、各社の実情に合った対応ができる利点があります。従来の金融庁のルールですと、どうしても画一的となり、どの金融機関にとっても、どこかに不都合があったわけです。しかし、自主的宣言の場合は、各金融機関の実情にあったものですから、理論的に守れないということはありません。
しかも、宣言の内容は、当然のことながら、ミニマムスタンダードの遥か上に、ベストプラクティスの追求として、設定されているので、金融庁としては、内部統制の検証さえすれば、ミニマムスタンダードの些末なことに、重点を置く必要もなくなるのです。
これは、金融機関にとって、大きな利益なのですし、なによりも、顧客にとって、大きな利益なのですから、今後、金融機関の様々な業務分野で、宣言型の自主的改革が進むことが期待されます。