メルボルンCで悔しさを胸に刻んだホースマンが誓った「あの師匠」に届けたい想い
海外遠征への強い想い
現地時間11月7日、オーストラリアのフレミントン競馬場で南半球最大のレース、メルボルンC(GⅠ、芝3200メートル)が行われ、ウィズアウトアファイトが優勝した。
毎年11月の第1火曜日、午後3時にゲートの開くこのレースは、国をあげてのお祭り。フレミントン競馬場のあるヴィクトリア州では「メルボルンカップデー」という祭日になるほどのビッグイベントだ。
ここに今年、挑戦した日本馬が、ブレークアップ(牡5歳)。管理するのは栗東・吉岡辰弥調教師だ。
1976年3月生まれで47歳の吉岡。93年にトレセン入り。最初の厩舎にいる頃、あるニュースを耳にし、心が躍った。
「シーザリオがアメリカンオークスを勝利したのは、衝撃的でした」
2005年。角居勝彦元調教師による偉業達成。北米のGⅠを、日本馬が初めて勝利した。「いつかは自分も海外で勝ちたい」と憧憬の念を抱くようになり、08年から角居厩舎へ移った。
「自分が在籍していた間も、ウオッカや、ヴィクトワールピサ、キセキらが海外遠征をしました。ただ、自分の担当馬には縁がありませんでした」
自らも海を越える
その後、19年に調教師試験に合格。20年に開業し、今回、ブレークアップで念願の海外初挑戦。メルボルンCの前に、同じメルボルン地区にあるコーフィールド競馬場で行われるコーフィールドC(10月21日、GⅠ)を使った。
「それが初めての海外挑戦という事で、慣れない環境で仕上げるのに苦労しました」
吉岡はそう言うと、更に続けた。
「検疫厩舎のあるウェルビー競馬場が、牧場にいるみたいな環境でした。そこからいきなりレースへ連れて来られて、馬も臨戦態勢が整っていなかったようです」
そう思わせる出来事の一つが、レース当日の馬運車から下ろした後にあったと言う。
「馬運車から下ろして、馬房に入るまでの段階で馬っ気を出してしまいました」
それでも打てるだけの手は打った。パドックから馬場へは真っ先に向かわせた。しかし、良かれと思ってとったこの策も、結果的に「裏目に出たかもしれない……」と続けた。
「レースへ向かうための気持ちを乗せていかないとダメでした。そのためにはパドックをもっと回した方が良かったのかもしれません」
結果は8着だった。
それらを踏まえて、新たにメルボルンCへチューニングを合わせにいった。吉岡は言う。
「今回は馬場への先出しはせず、パドックをちゃんと回します。馬房に関しては馬っ気を出さないように他の馬の往来がない端っこにさせてもらい、更に隣の馬房には衝立を置いて、他馬が入らないようにしてもらいました」
更に日々の調教を行なうウェルビー競馬場サイドにも「馬場をもう少し柔らかく出来ないか?」とリクエストを出すと、散水してくれた。そんな成果もあり「3日前の土曜日の追い切りは、見た目以上に時計が出て、状態が上がって来ていると感じた」(吉岡)。
あの師匠への想い
そんな指揮官は、この遠征を決めた時から思っていた事があった。
「角居先生のデルタブルースとポップロックがメルボルンCに挑戦した際、コーフィールドCを叩いてから変わり身を見せてワンツーフィニッシュを決めました。今回は、当時と同じ臨戦過程で、結果も同じようになる事を願っての遠征でした」
そう願ってはいたが、しかし、遠征前、角居氏に助言をもらうような事はしなかったと言う。
「勝って報告を出来れば、と思い、あえてアドバイス等は受けませんでした」
コーフィールドCとメルボルンCの中間で、日本に帰った際、たまたま栗東トレセンを訪れていた角居氏とすれ違った。すれ違い様に「もう1戦あるから頑張って」と言われたが、ゆっくりと話す時間はなかった。だから、ますます「勝って報告をしたい」という気持ちが強くなった。
ところが競馬は非情だった。予定より8分遅れの午後3時8分に前扉が開くと、普段はスタートの速いブレークアップが、この大一番に限っていつも通りのダッシュを決められず「取りたいポジションを取れなかった」(松山弘平騎手)。外枠で終始外を回された事もあり、結果は16着。コーフィールドCの覇者ウィズアウトアファイトにまたしても敗れた。
「状態は良いと思ったのですが、完敗と言わざるを得ない結果でした。角居先生に良い報告を出来ず、残念です」
そう言った吉岡から、その晩、1本の通知がLINEで届いた。そのLINEは次のような文言で〆られていた。
「この悔しさを胸に刻みます」
今回は、世界という壁に打ち込んだ1つ目のハーケンだ。これを手掛かりに、いつの日か、登頂の報告を師匠に届けられる日が来る事を願おう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)