大変な難産の末に子を産んだ、藤原彰子の出産の模様とは
今回の大河ドラマ「光る君へ」は、一条天皇の中宮・藤原彰子が子を産む場面だった。ドラマでも描かれていたように、大変な難産の末に子を産んだので、周囲も相当な気遣いだった。その辺りを紹介することにしよう。
藤原道長は一条天皇を支えていたが、その後の一族の繁栄を考えた場合、娘で中宮の彰子が後継者たる男子を産むことを大いに期待していた。その男子が成長して天皇になれば、道長が支えるだけでなく、子らの栄達が約束されるからである。
当時、一条天皇には、藤原定子との間にもうけた敦康親王という一粒種がいた。しかし、定子が早くに亡くなったので、彰子が育てていたのである。定子の兄の伊周は、長徳の変で没落していたので、敦康親王に大きな期待を掛けていた。
道長は一条天皇と彰子の間に子が生まれることを祈念すべく、御嶽詣を行うほどだった。その甲斐があって、寛弘5年(1008)になると、彰子の懐妊が確認されたのである。一条天皇や彰子だけでなく、道長の喜びも一入だったに違いない。
こうして同年9月11日、彰子は敦成親王(のちの後一条天皇)を産んだのである。しかし、彰子の出産は決して楽なものではなく、なんと30時間もの長時間に及んだといわれている。出産の経過を詳しく記したのが、紫式部の『紫式部日記』なのである。
彰子のお産の直前、その周囲には安産を願う僧侶が大勢取り囲み、大きな声で読経していたという。すると、出産を阻むかのように物の怪があらわれるので、それらを憑子に移したのである。憑子とは、修験者らが神降ろしをするとき、神霊を乗り移らせる童子や人形のことである。
彰子の周囲には、魔除けの散米が撒かれ、加持祈禱する僧侶や髪を振り乱す女房らが泣き叫んでいたので、誠に異様な光景だったといわれている。そうした状況下で、式部は冷静に彰子の出産の経過を書き記したのである。
彰子の出産後、親王の誕生を祝う祝宴が執り行われた。道長はあまりの嬉しさに、時間に関係なく姿をあらわしては、初孫を抱き上げたという。その際、小水を掛けられたと伝わる。それは権力者としてではなく、孫の誕生をうれしく思う道長の真の姿なのかもしれない。