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おめでとう! バドミントン金メダリスト・タカマツの高橋礼華さん結婚。そこで、思い出話を(2)

楊順行スポーツライター
引退会見での高橋礼華さん(左)/松友美佐紀(写真:西村尚己/アフロスポーツ)

 高橋礼華さん(以下敬称略)が聖ウルスラ学院英智高校3年だった、2008年。高校生としての最後の試合・国体の少年女子の部で優勝を果たしたとき、田所光男監督はこんなふうに高橋を評価している。

「インターハイのあとは、試合や遠征が続いて、ほとんど仙台に帰っていないんです。ですから、ケガをした右足の治療も十分にできていない。そういう状況でも結果を出すことが高橋の集中力であり、メンタルの強さだと思いますね。成長しています」

 かつては電電東京(現NTT東日本)で活躍し、ナショナルメンバーだった田所氏の、最大級のほめ言葉だ。

 奈良県橿原市で育った高橋は、バドミントン歴のある母・智子さんが手伝いをする橿原ジュニアでプレーを始めた。最初は空振りばかりだったが、こうと決めたらとことんやる性格である。4年生になった00年には、全国小学生ABC大会のシングルスで優勝。同大会では02年にも優勝、全国小学生選手権も02、03年と優勝し、聖ウルスラ学院中(当時)に進んだ(ちなみに2歳下の妹・沙也加も同じクラブでバドミントンを始めた。こちらも小・中・高で個人タイトルを持つ)。

自分の決断にビックリ

 ただ、である。親元を離れることに不安はなかったのだろうか。なにしろ、まだ12歳なのだ。18歳になり、日本ユニシスに入社する直前の高橋は、こう答えている。

「自分でも、自分の決断にびっくりしました(笑)。ずっと家の近くの中学に進むものだと思っていたのが、いつの間にか仙台に行くことに決めたんですから。もちろん、誘ってもらったこともあるんですが、小学生時代に試合をした玉木(絵理子)たちもウルスラに進むというし、強くなりたいならそれしかない、と……。思ったことは、すぐ行動に移すタイプなんです」

 平山優(現日本ユニシス監督)という存在もあった。高橋が小学6年生の02年、平山はウルスラの高校2年生ながら、1学年上の廣瀬栄理子を破ってインターハイのシングルスを制した。すごい、平山さんのようになりたい……聖ウルスラ学院(当時)は中高一貫教育。中学に入れば、1年間は高校3年の平山と同じ体育館で練習できる。そうすれば強くなれる。小学生なりの、真摯な思いだった。

 入学してすぐは、練習のきつさや環境の違いに「奈良に帰りたい」と寮で泣いてばかりいた。中1の終わりには腰を痛め、3カ月ほどまともな練習ができなかった。それでも、一晩寝ればけろっとする性格である。同級生らと励まし合ううちに、新しい環境にも慣れていく。そうなると、もともと逸材ぞろいの年代だ。高橋が3年の05年、全国中学校大会(全中)で、団体と単複をすべて制覇し、三冠を達成している。

 高校では、体は鍛えられ、技術も格段に進歩していた。1年からレギュラーとしてインターハイで4強入り。3年になると選抜、インターハイともに団体とダブルスのタイトルに輝いた。

松友と組んでダブルスが楽しくなった

 なんといっても大きいのは、2年の秋から、1学年下の松友美佐紀とコンビを組んだことだろう。最初は部内の練習試合でさえなかなか勝てなかった。だが、テクニックのある松友が前衛でゲームをつくり、高橋が後ろから強打、というスタイルが確立するにつれて結果が出るようになる。高橋は振り返る。

「もともとがシングルス・プレーヤーで、ダブルスが楽しくなったのは、松友と組んでからですね。速い展開だったり、相手の決め球をレシーブしたり、スマッシュで崩して松友が前で決めてくれたり……うれしかったのは、08年の選抜の優勝です。妹が07年の全中でシングルスを優勝したのは心からうれしかったんですが、プレッシャーもあった。私は中学時代、個人タイトルがありませんでしたから、妹に置いていかれたような気持ちだったんですね。それが高校3年でやっとタイトルをとれて、“私だってやればできるんだ”と思えるようになりました」

 その後インターハイ、全日本総合、そして国際試合などで実績を積んできたのは、前回書いたとおりだ。

 高校2年まではなかなか結果が出なかったため、実業団よりもむしろ大学進学を視野に入れていたという。だが、3年になってタイトルを獲得し始めると、がぜん実業団からも注目度が高まる。そんななか「平山先輩に話を聞き、練習に参加しても雰囲気のよさを感じました。短時間に集中するスタイルも合っているので」(高橋)、ユニシス入社を決めたわけだ。当時創部2年目だったチームにとって、この年採用の2期生は高橋たった一人だったが、

「同期が一人といっても、全然気になりません。栗原(文音)さんとか、みんな仲よくしてくれますから。社会人のことはまだよくわからなくて、いまでも高校時代の延長のような感じもありますが、ユニシスもスタートしたばかりで、これからのチーム。その一員になれたことで、ワクワクしています。ほかのチームにも米元(小春)とか、同期がたくさんいるので、負けないようにしたい」

 ほやほやの社会人だったこのころの高橋、なんとも初々しい。そして当時、こんなふうにオリンピックについての夢を語っていた。

「意識するようになったのは、つい最近です。スエマエ(末綱聡子/前田美順)さんたちがベスト4に入った北京五輪をテレビで見て、鳥肌が立ちました。1回は出てみたい、自分もこういう舞台に立ちたい……。ただそれには自分は、まだダブルスの技術がないと思います。これからは、スマッシュだけでは勝てません。末綱さんみたいなテクニック、冷静さが目標です」

 タカマツがリオ五輪で金メダルを獲得するのは、このときから7年後である。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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