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戦国大名の全員が天下統一を目指していたわけではなく状況に応じた戦略を持っていた!?

歴ブロ歴史の探求者

戦国大名は合戦に勝利し領地を広げる事だけを考えていたわけではありません。

治める領地と領民を守り繁栄させるために、大名達は自分たちの事情に合わせた国家戦略を考えていました。

戦国大名の誕生

室町幕府での地方の統治は、幕府から任命された守護大名が統治を行っていました。しかし、応仁の乱で将軍の権威が失墜して以降は、幕府の後ろ盾で地方を支配していた守護大名たちの権威も失墜します。

この守護大名達のかわりに力をつけたのが戦国大名で、室町幕府の将軍などの中央権力と一線を画して独自で領地を支配し、軍事や内政・外交も自身の裁量で行っていました。

戦国大名として名を上げた者には大きく分けて3つのパターンがあります。

  1. 守護大名 → 戦国大名
  2. 守護代 →下剋上 → 戦国大名
  3. 国人 →下剋上 → 戦国大名

この戦国大名のパイオニアとして有名なのが北条早雲で、伊豆を乗っとり支配した事から始まりました。この早雲を祖とする北条氏は守護大名以外での成り上がりの戦国大名として豊臣秀吉の北条討伐まで続きます。

北条氏のように成り上がりの戦国大名もいれば、元守護大名や守護代・国人または秀吉のように足軽から成りあがった者もいます。

※下剋上:下位のものが上位の者を政治的・軍事的に打倒して権力を奪取する事。(Wikipedia参照)

守護大名から戦国大名化した大名

室町幕府から任命されて領国を支配していたのが守護大名で、この権力基盤を独自に強めて戦国大名化したパターン。代表的な大名家として今川氏・武田氏・大友氏・島津氏などがあげられます。今川義元は駿河の守護大名で軍事改革を行い、遠江から三河まで領土を拡大し戦国大名化しました。

守護代が実質支配者となり戦国大名へ

守護大名は京都に屋敷を構え中央政務に関わるものが多かったので、家臣の中から代理を立て現地へ派遣し領国経営を行わせたのが守護代です。この守護代が世襲化し、実質的に現地の統治者になり戦国大名になるケースが出てきました。

越後の長尾氏(上杉氏)・越前の朝倉氏・尾張の織田氏・阿波の三好氏などがこのケースに当たります。

国人領主から下剋上で戦国大名へ

国人領主は国衆などと呼ばれ、鎌倉時代の地頭の流れを汲む武士でした。その国人たちが守護の支配から自立を図り、衰退した守護大名にとって代わりその領地を治めるように。毛利氏や長宗我部氏・龍造寺氏・浅井氏などが下剋上を経て戦国大名として君臨します。

戦国大名達の未来戦略

私は『戦国大名の最終目標は天下統一』と言うイメージがありましたが、必ずしも天下統一が最終目標ではなかったようです。諸大名達は自らの力や状況に合わせて将来の設計図を描いていました。

戦国大名の国家戦略

  1. 天下取りの戦略
  2. 領土拡大の戦略
  3. 領土保全の臣従政策
  4. お家存続戦略

と大きく4つの戦略に分けられます。

各戦略の説明とその戦略を取った代表的な大名たちを紹介します。

天下取りの戦略

天下取りの戦略を採用していた大名と言えばやはり織田信長。1568年に足利義昭を奉じて上洛を果たします。織田信長は岐阜城に入り天下布武をスローガンにひたすら天下取りの最終目標のために合戦を繰り広げていました。当時の天下統一とは日本全国を自分たちの支配下に置くのではなく、天皇の権威を利用し朝廷のある京都を中心に天下に号令を下すというものでした。

実は信長の前に天下取りの戦略を掲げ成功した人物がいました。それが、足利義輝将軍の時代に畿内の覇を唱え朝廷を意のままに掌握していた三好長慶です。

領土拡大戦略

天下取りの野望を持っている大名家と同様に好戦的に領土拡大をしていましたが、その理由が家臣達に知行を与えるためでした。自国を守る事が出来ない君主は家臣の下剋上にあいその座を奪われる危険があったので、その力を誇示する意味合いもあったようです。

この領土拡大戦略を掲げていたのが土佐国の長宗我部元親で「我は四国の蓋になる」と言い1585年に四国統一を果たしています。甲斐国の武田信玄は「国を広げてこそ家臣達に恩賞を与え、喜ばせる事ができる」と考えており、領土の最大化を目標としていました。

領土保全の臣従政策

時の天下人に臣従して、その政権下で重要なポストについてお家存続を目指した戦略もありました。前田利家や蒲生氏郷などがそれで、利家は最終的に豊臣政権下で五大老の一人になるまでなり加賀百万石の基礎を作りました。

蒲生氏郷は信長から秀吉に仕え、小田原攻め後には会津42万石の大名に出世しています。

お家存続戦略

武田氏や毛利氏のように大国であれば領土の拡大化でお家を守る事も出来ますが、小大名家になると独自で侵略する事が難しく、リスクも大きいのでより強い力を持つ大名家に臣従する事で領土保全を行っていました。

このような小大名家の場合は侵略よりも自国を守ることが先決で、お家存続のためには主君を変えるのは当たり前でした。戦国時代の転職王・藤堂高虎は、浅井長政から始まり七回の転職を経て関ケ原の戦い後には20万石の大名に出世しています。

真田氏は武田氏の家臣でしたが、信長に仕え、北条・徳川・上杉を天秤にかけながら豊臣政権では領土安堵を勝ち取りました。関ケ原の戦いでは、真田家存続のために、父と子がそれぞれ東軍・西軍に分かれどちらが勝っても真田が残るようにしていました。

以上のように戦国大名達はお家存続のために自分たちの状況を見極めながら、あの手この手で生き残りを図っていました。しかし、江戸幕府成立して平和な世の中が始まってみれば、一番力を持っていた守護大名から戦国大名化した家は島津氏しか残らずこの時代の下剋上のすさまじさが伺えます。

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

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