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【九州三国志】軍配者の先にある真実!川田義朗、その祈りと智謀の軌跡

華盛頓Webライター
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川田義朗、幼名を宮松丸とし、比志島義貞の子として生を受けました

だがその幼年期は詳らかではありません。島津氏の家臣となるにあたり、伊集院忠朗に師事し、兵法の奥義を学び、後に軍配者として島津義久に仕えました。

その役目は単なる占いや祈祷に留まらず、戦略と士気高揚を併せ持つものであったのです。

天正4年(1576年)、日向高原城攻めで義久の軍配者を務め、勝鬨の声を先導して勝利を導いたのが彼の名が記録に残る最初の大舞台です。

続く天正6年(1578年)、九州南部を統一しつつあった島津氏にとって存亡を懸けた耳川の戦いでは、大友宗麟率いる大軍に対し、義朗の軍配が的確な戦術を示したとされます。

この戦いで島津軍は勝利を収め、九州の覇権を大きく進めたのです。

その翌日の勝鬨の声を先導したのも義朗でした。

天正12年(1584年)の沖田畷の戦いでは、「今日の兵気は大将軍を得るの気である」との言葉で士卒を鼓舞。

さらに敵将・龍造寺隆信の最期を予言し、戦局を島津軍有利に導いたといいます。

このような神秘性を帯びた言葉が、兵たちの心を一つにし、戦の勝敗を左右したことは想像に難くないでしょう。

一方、彼の占いと進言は実利的な側面も持ち合わせていました。

天正13年(1585年)、隈庄城を巡る戦いでは悪日が続くことを理由に戦を中止するよう託宣し、義弘以下の諸将がこれに従ったのです。

この託宣はその後も当たると評判となり、義朗の信頼をさらに高めることとなりました。

天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐では、義久が徹底抗戦か降伏かで揺れる中、義朗の占いが出陣日を悪日と断じたことで、義久は出陣を断念。

結果的に島津氏が秀吉との和議を受け入れる道を選ぶ契機となりました。この進言が島津家の存続に繋がったとも言われています。

文禄4年(1595年)、義朗は世を去りました。

生年やその最期の詳細は今なお不明だが、彼の存在は島津家において不可欠なものであり続けたのです。

神秘的な占術と冷静な戦術の融合。

川田義朗の歩みは、戦乱の世にあって、祈りと智謀がいかに力を持ち得たかを示すものであるといえます。

彼が遺した軌跡は、ただの軍配者ではない「戦略家」としての新たな軍師像を確立しました。

Webライター

華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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