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織田信長に召し抱えられた黒人の弥助は、侍身分だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 最近、X(旧ツイッター)において、織田信長に召し抱えられた黒人の弥助は、侍身分だったのか否か大論争となっている。この点について、取り上げることにしよう。

 織田信長が黒人の弥助を召し抱えていたのは、よく知られた事実である。天正9年(1581)、イエズス会の巡察使・ヴァリニャーノが日本にやって来たとき、連れて来た黒人の使用人(奴隷)が弥助である(『日本教会史』)。

 織田信長が初めて弥助に会ったときの記録は、「きりしたん国より、黒坊主参り候。年の齢廿六・七と見えたり。惣の身の黒き事牛のごとく、かの男健やかに器量なり。しかも強力十の人に勝たり」と『信長公記』に記されている。

 弥助の年齢は26・7歳で、皮膚は牛のように黒かったという。しかも体は丈夫で力が強く、10人の男にも匹敵したという。『信長公記』の別の写本には、信長が弥助に私宅と鞘巻(腰刀の一種)を与え、ときに道具持ちをさせたと書かれている。

 『家忠日記』には、「タケ(丈)ハ六尺二分」と書かれているので、弥助の身長は約1.8mだったと考えられる。しかも、信長は、弥助に扶持を与えたとも書かれている。

 京都市中では弥助の噂が広がり、やがて見物人が殺到するような事態となった。信長は弥助を武士として身辺に置き、将来的には城持ちにまで引き立てようとしたという噂が人々の間に広まったという。

 では、弥助が侍だったのかといえば、これだけの情報では判断しづらいだろう。私宅、腰刀、扶持を与えたことが、そのまま侍と定義してよいものか疑問が残る。

 弥助の乏しい情報から推測すると、信長は出掛けるときに弥助を連れて行き、人々が驚く様子を楽しんでいたようであるので、召使いのような存在だったように思える。新しいもの好きの信長の好奇心を刺激したのだろう。

 イギリス人の三浦按針は、徳川家康によって家臣として取り立てられ、知行を与えられた。それは、按針の造船技術や航海術、今後の外国との貿易を考えると、メリットが大きかったからである。

 一方で、弥助には同じようなメリットが少なく、むしろ物珍しさが先行したように思える。信長が私宅、腰刀、扶持を与えたのは、特に侍身分と関連付ける必要性がなさそうだ。

 なお、いかなる理由があっても、奴隷制や人身売買は人道に反した行為であり、あってはならないことである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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